論理的思考とは何か
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論理的思考の新しい理解と本書の要点
この書籍は、他者の思考を非論理的だと感じるのはなぜか、という問いを起点に、論理的思考が世界共通ではないという「西洋中心主義」の常識を揺さぶるものです [3]。
論理的思考とは、目的に合った思考法を選ぶ技術であり、不確実な世界で主体的に判断し行動するための極意が説かれています [3]。論理的であるとは、「何がどのような順番で並べられて結論を導くかについて、書き手と読み手の双方の間に合意が成り立っている状態」を指します [2, 4]。この「何がどのような順番で」という合意が、文化や時代によって異なるため、衝突が起こるのです [2, 4]。
コミュニケーションがうまくいかないのは、お互いが違う領域で思考しているからであるため、相手や自分自身がどの思考の型を使っているのかを把握することが、見えない文化衝突を回避するために重要です [2]。
重要な前提としての「目的」
思考の技術を使いこなすには、まず解きたい問題の目的を特定し、その目的に合った思考法を選ぶことが究極的に重要です [5]。議論を始める前に「何を優先させるのか」の合意を形成することは、どの領域の思考法を使うかの決定に役立ちます [1]。
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1. 4つの推論の型とその目的
本書では、以下の4種類の推論の型とその目的を押さえることが重要だとされています [3]。
| 推論の型 | 目的 | 特徴 (主な推論方法や概念) |
| :--- | :--- | :--- |
| **論理学** | **真理の証明**(演繹的操作による)。 | 論理的であること == 矛盾のないこと。形式の持つ必然性によって必ず正しい結論を導く **演繹的推論** を用いる。 |
| **レトリック** | **説得** という目的を達成するための戦略的な思考。 | 答えがない、意見が割れる議論に使う。日常を支える、間違う可能性はあるが多くの場合は正しい **蓋然的推論** である。 |
| **科学** | **物理的真理の探究**。 | 結果から遡って原因を追求する。演繹では得られない **新しい知識を発見して拡張** する。 |
| **哲学** | **形而上学的真理の探究**。 | 正義、美、権利など **答えが不定の問い** に使う。私たちが当たり前に思う前提を疑う。 |
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2. 価値に紐づけられた四領域の思考法
これらの推論の型は、価値に紐づけられた四領域の思考法(経済・政治・法技術・社会)と対応しており、それぞれの思考法は、作文の目的、要素と順番、および適切な証拠のあり方が異なっています [3, 10]。
| 領域 | 国(作文の例) | ① 作文を書く目的 | ② 作文に必要な要素と順番 | ③ 適切な証拠 |
| :--- | :--- | :--- | :--- | :--- |
| **経済** | アメリカ(エッセイ) | **主張の正しさを証明し、相手を説得すること**。 | **主張 → 根拠 → 主張** (PREP法など)。 | **科学的なデータや統計の数字**、歴史的事実など、議論の余地を残さない経験的な事実。 |
| **政治** | フランス(ディセルタシオン) | **十分な吟味が行われた過程を重視**し、最終目的は **合意形成**。 | 導入 → 展開(**弁証法:正-反-合**の手続き)。「私は」という言葉は使わない。 | 著名な思想家や作家による作品の **厳密な引用**(過去の遺産)。 |
| **法技術** | イラン(エンシャー) | 読み手に深く考えさせ、道徳的・宗教的に**正しい結論**に落とし込む。 | 序論 → 本論 → **結論(ことわざ、詩の一節、神への感謝などで結ぶ)**。 | **ことわざや詩**、宗教観・道徳観など社会全体に浸透している **既成概念・常識**。 |
| **社会** | 日本(感想文) | 社会の構成員から **共感されること**。体験を通した **自己の成長の軌跡** を描く。 | 序論(当初の感想)→ 本論(体験)→ **結論(体験後の感想=自己の成長)**。**起承転結**も効果的。 | (特に客観的証拠の言及なし)。当事者性と切実性が質の保証。 |
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3. なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか(対立構造の例)
異なる思考領域の論理から見ると、他領域の思考法は「非論理的」に見えてしまいます。
経済領域から見た他領域の論理
• 政治領域へ: 弁証法(ディセルタシオン)は結論までの手続きが長く、時間がかかりすぎる [19]。貴重な資源である時間を書き手にも読み手にも強いることは不道徳ですらある [19]。
• 社会領域へ: 感想文は、意見・主張と事実を明確に分けていないように見える [11]。常識をなぞるような感想や生の感情の提示には、面白みを感じることができない [11]。
政治領域から見た他領域の論理
• 経済領域へ: エッセイの一つの見方で押し通し、議論の余地を残さない論証のやり方は全く不十分であり、間違いを起こしやすい短慮な議論の手続きとみなされる [11]。
• 法技術領域へ: 結論が決まっているレトリックは自由の権利の侵害とみなされる [15]。政治的な事柄を真理として教えるべきではない [15]。
法技術領域から見た他領域の論理
• 経済領域へ: 経済のエッセイの「私は・・・と考える」という論理は、個人主義的で社会全体の秩序にとって危険とみなされる [20]。目的が個人によって立てられるため、真理を保証しない [20]。
• 政治領域へ: 弁証法は、論証の目的が個人の主張の正しさの証明ではなく、あらゆる可能性の吟味を目的としているため、真理を保証せず非論理的であるとみなされる [15, 20]。絶対的な真理のもとでは、結論が一つに決まらない弁証法は意味をなさない [18]。
社会領域から見た他領域の論理
• 経済領域へ: 自己の主張のみを一方的に述べるエッセイのスタイルは、多様な意見や価値観を持つ他社への配慮に欠けるとみなされる [18]。感想文においては、個人的な経験自体が成長の証として価値を持つが、エッセイでは経験的知識は目的を達成するための道具でしかない [18]。
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4. 多元的な思考へのシフトと訓練
論理的思考は目的に応じて形を変えて存在します [1]。日本の作文法(感想文)が論理的に書けない元凶と揶揄されることもありますが、実は独自の論理を持っており、社会領域で重要な役割を果たしています [17]。
論理的思考から多次元思考へ
• 思考の技術を使いこなすためには、目的と場合によってこの四つの型を使い分けることが、次の時代の論理であり、力になります [2]。
• 最近日本では、アメリカ式のエッセイが唯一の方法であるという認識が広がりつつありますが、他の領域の思考の利点も理解しておくべきです [1]。
• 話の矛盾をなくすことは有効ですが、それだけでスムーズに意思疎通できるわけではなく、お互いが違う領域で思考しているからこそコミュニケーションがうまくいかないことが多くあります [2]。
訓練の仕方(例)
• アメリカ式(経済): 小学一年生から「私は〇〇と考える。なぜならば...」と定型化された言い方で意見を述べる意識的な訓練を行う [14]。
• フランス式(政治): 弁証法の型を使って思考し書く訓練は、暗記した知識を体系化し、政治的な価値に基づいて血肉となった知識を使いこなす力を養います [14]。正、反、合のそれぞれの視点から距離を取る修辞学的な自己を確立することが求められます [14]。
• 日本式(社会): 小説を読んだり、映画を見たり、多くの人と関わったりする経験を積み、他人の主観を共有する間主観性の構築にまで結び付けられる能力が必要です [19]。感想文を書くことで、共感の感覚を養うことができます [19]。
なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか?
「西洋中心主義」」の常識を揺さぶる
論理的思考は世界共通ではない!?目的に合った思考法を選ぶ技術を身につけ、不確実なこの世界で主体的に判断し、行動する極意がここに!
論理的思考法は一つではない。思考をする目的を明確にしてその目的に合った思考法を選ぶ技術が要る。論理学・レトリック・科学・哲学の推論の型とその目的を押さえ、価値に紐づけられた四領域の思考法(経済・政治・法技術・社会)を使い分け、不確実なこの世界で主体的に判断することを説く。論理的思考の常識を破る一冊。
それぞれの論理の型を、それぞれの国で教えている作文の型から抽出する。子供の作文の型から経済や政治領域の思考法がわかるのかと訝しむ人もいるだろうが、作文実験の結果と、教育の目的と実践から有効であると明らかにされている。
形式の持つ論理的必然性に導かれて必ず正しい結論を導くのは論理学の形式則に則った演繹的推論のみ。しかし、間違う可能性はあるが多くの場合は正しい蓋然的推論こそが日常を支える推論であり、知識を広げるのは科学における遡及的推論であり、人間がより良く生きるための知恵と徳は哲学の厳密な言葉の定義によるもの。なのでこのような複数の領域を使い分けることが大事。
## 4つの推論の型とその目的
## 論理学
論理的であること==矛盾のないこと
論理学は文と文の関係を内容ではなく形式に注目することによって結論の真偽が判断できる仕組みを作った。
論理学では、複雑な問題をできるだけ簡単な要素に分解してから全体を分析する。これは論理学以外の場面でも重要なのでは。逆に、論理学が使えない、得意としない問題には、こういう方法を使わない方がいいのでは。0と1の間の数が無限にあるみたいな、無限に分解できる問題には使うべきではない。では、そういう問題にはどう取り組めばいいのか* 分解・分析(論理的思考)は、仕組みが明確で、再現性のある問題を解決するための強力なツールです。
* しかし、感情、芸術、生命、社会といった、要素間の相互作用から新たな価値が生まれるような複雑な問題に対しては、全体をありのままに捉える(直観的・全体論的思考)アプローチが不可欠です。
重要なのは、どちらか一方が優れていると考えるのではなく、問題の性質に応じて両者の思考法を使い分ける、あるいは組み合わせることです。鋭い分析力と、物事の全体像や文脈を捉える大局観。この両方をバランスよく備えることが、より深い理解へとつながる鍵と言えるでしょう
すべての〇〇というときは、反例を一つ持ってくるだけで崩される。こういう場面はよく見かけるので、日常的に我々は論理学的思考をしているのでは。だからSNSでもポジティブな意見よりネガティブな意見の方が目立つのでは。違う思考をすれば、ネガティブで溢れないようにできる?どうすれば?
## レトリック
レトリックにおける論理的な思考とは、説得という目的を達成するための戦略的な思考。
理詰めによる説得は相手を叩きのめすが、感情による説得は甘い蜜で誘い出すように快くその気にさせる。
答えがない、意見が割れる議論にはレトリックを使う。議論の順番は論理学では真偽の判定に関係しないので取り上げられないが、レトリックにおいては議論の強さ、わかりやすさに直結する。Youtubeの台本もレトリックかな?
レトリックは、様々な議論の観察から発想の型を抽出し類型化したもの。先人たちが築き上げてきた説得の型。アリストテレスが論証の型を網羅的に分類したのだから、私たちはそこから取り出すだけでよい。つまり、型を自分で考えるのではなく、確立された型を素材の上に被せるだけで卓越した弁論、論証ができる。なので、確立された型を覚えて、それぞれの状況に合う型を使えば最強。さらに故事や寓話、伝承された物語、比喩を使った話などは、主張したい事柄の具体的な結末を示す根拠づけの宝庫なのでストックしておくと例証するときに便利。
## 科学
科学の推論の型は、結果から遡って原因を追求する。たとえば、意外な事実Bが観測されて、もし、Aが正しければBは当然である時、Aが正しいと仮説を立て、検証していく。演繹では前提条件からすり足で進むので、前提に含まれた以上の新しい知識はないが、科学の推論は新しい知識を発見して拡張していく。つまり演繹では認められない非論理的な思考が、未知のものの発見を生む。一見科学的思考としては不適切に見える創造性が、科学を発展させていく。蓋然的推論と違う点は、蓋然的推論は常識を根拠にするが、科学の推論は非常識(意外な事実)を根拠にする点である。帰納と違う点は、帰納は観測可能な事象を一般化するが、科学の推論は観察可能から観測不可能な事象を推論する。例えば、海王星の発見。ただし、仮説を思いついて、それを検証可能な形に読み替えるときには演繹をつかい、観察によって帰納的に事実確認をするので、この三段構えにより、仮説形成は一般の知識となり得る。これをすることで、一つの正しい答えへの固執やこれまでと同じやり方にならないようなイノベーションを起こすことができる。これは、AIの開発やサービスの差別化、教育方針の改革などに使われている。
驚くべき現象の原因究明は、"なぜ"に答える目的思考的に行われる。この目的に基づいた意識的な観察と熟考が不可欠。何もないところから新しいものは生まれない。あらかじめ問題を熟知している者のみが、偶然を幸運なチャンスに変換できる。
## 哲学
哲学的探究の論理とは、議論中に、何について考えているのか、議論しているのかを俯瞰的に見るときに使う。
哲学的探究の論理を使う場面としては、GDPとは何かのように答えが決まっている場合ではなく、正義とは、美とは、権利とは何かのような哲学的な問い、答えが不定の問いである。逆に知識が確定的、絞っていくと、哲学的探究の論理を使うべきではない。私たちが当たり前に思う前提を疑い、よりよいものにしていくのが哲学。
レトリックが常識から推論するのに対して、哲学は常識を疑い推論する。
哲学は、ものごとの本質を捉えることを目指す。人間がものを考える時は必ず言葉を使うので、正しい言葉を使う必要がある。そこで役立つのが文法と論理学。たとえば、ある定義をするときに使う言葉が複数の解釈を生むものではないかなど。その文法と論理学を学んで厳密かつ自律的に考えるための基礎を固めて初めて、哲学が提案する思考法の思考実験と弁証法が効力を持つ。
## 四領域の思考法(経済・政治・法技術・社会)
四つの作文の論理と思考法の特徴を①作文を書く目的②作文に必要な要素と順番③何が適切な証拠になるのかの三点に注目して抽出する。また、それぞれの思考法の訓練の仕方も書く。
## ①作文を書く目的
### アメリカの作文(経済):
証拠を挙げて主張の正しさを証明し、相手を説得すること
### フランスの作文(政治):
十分な吟味が行われたかどうかの過程を重視する。二者択一の決断を行うときも両方の立場を検討し、○○である、○○でないの二元論を超える見方、すなわち極端に触れず、過去と現状を超える、より広く作文積極的な物の見方を提示すること、
ディセルタシオンは哲学の対話法をモデルに、現状を批判的に見てよりよく考え生きるための方法を小論文の型に落とし込んでいる。
### イランの作文(法技術):
結論では結論を明確に書かずに、メッセージを伝えることが重要とされており、これは主題について読み手に深く考えさせ、主題に対する読み手の疑問に答えることが目的。そのために、結論ではことわざや詩の一説を結びに置いている。
主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく。結論を決めてから書き出すことは欧州の作文を書くときの鉄則だが、イランの作文ではすでに結論は外から与えられている。なので、意見・主張の個性や独創性、新規性は期待されていない。宗教勧誘とかに使えそう??
暗記されることを前提としている。その膨大な解釈の暗記を上に議論を積むことで、解釈が許される域に達するというのが、イランの考え方。
### 日本の作文(社会):
社会の構成員から共感されることを目的とする。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった利他の考えに基づく個々人の善意が社会領域の道徳を形成する。そして、道徳形成の媒体となるのが共感である。
生活の中で経験する事象をよくみつめ、判断し、感じたり考えたりしたことをまとめて表現する能力を養うことが感想文の目的。これは最終的に、事象に対する認識力、判断力、思考力、洞察力、想像力、感受性を高めることにつながる。感想文は認知・思考・感性・態度の全方位的な能力の育成を目指している。
体験の前後での書き手の気持ちや考え方の変化を感想という形で述べさせる根底には、対尾見を通して何を学んだのかを書く、つまり体験を通した自己の成長の軌跡を描かせ、その体験を今後どう自己の行為や生き方に活かすのかを考えさせる目的がある。
また、自分が書いた感想文を他者と共有したリ、他者が書いた感想文を見ることで、自分の考えや価値観をより深めることができる。
## ②作文に必要な要素と順番
### アメリカの作文(経済):
主張→主張を支持する根拠→主張
### フランスの作文(政治):
弁証法の正-反-合の手続きを踏む。導入(主題に関わる概念の定義→問題提起→三つの問いによる全体構成の提示)→展開(弁証法:a 定立(正),b 反定立(反),c 総合(合))→結論(全体の議論まとめ→結論→次の弁証法を導く問い)
自分がどう考えるか、感じるかは全く意味を持たない。ディセルタシオンにおいて"私は"という言葉は一度も出てこないし、書いてはならない。
正、反、合のそれぞれの見方はそれ独自では意味を持たない。議論展開の全体構造の中に位置づけられて初めて意味を持つ。全体が部分を意味づける。ディセルタシオンで求められる能力は、この全体を作り上げる構想力。
### イランの作文(法技術):
序論(主題の背景)→本論(主題を説明する三段落。細かな主題群の三つの展開、三つの具体例など)→結論(全体をまとめ、ことわざ、詩の一節、神への感謝のいずれかで結ぶ)
序論では比喩によって主題を表現する。
本論の、主題の三つの説明では、包括的な主題を三つの項目に分けて展開したり、三つの具体例を並列させたりするが、三つの項目は全体から細部へと並べることが推奨されている。
結論は一段落で書くことが推奨されている。
### 日本の作文(社会):
序論(書く対象の背景)→本論(書き手の体験)→結論(体験後の感想 == 体験から得られた書き手の成長と今後の心構え)
序論で書く対象の背景と書き手が対象に対して持っていた感想(理解・知識・考え・感情)を書き、本論で対象を通した書き手の体験を述べ、結論で体験後の感想を述べる三部構造である。
感想そのものの質を保証するのが、当事者性と切実性をもって書くこと、つまり、自分の生活や生き方にどうかかわるのかという視点を持つこと。本の内容や一部始終をだらだらと書くのではなく、自分とのかかわりと自己の変化という視点から焦点を絞って三部構成で書くことが重要。
このように体験を切り取って一つのストーリーとして構成するには、起承転結が効果的で、特に転の部分で驚きが表現されると書き手の変化が伝わりやすい。
## ③何が適切な証拠になるのか
### アメリカの作文(経済):
科学的なデータや統計の数字、歴史的事実などの、それ自体に議論の余地を残さない、正誤も検証可能な経験的な事実。科学の仮説検証と同じような客観性や厳密性を論証に与えようとしている。
### フランスの作文(政治):
著名な思想家や作家による作品の厳密な引用。過去の遺産として共有された知識は時の淘汰を経ており、それ自体の正当性について論じる必要はないから。
### イランの作文(法技術):
ことわざや詩。また、宗教観や道徳観等、社会全体に浸透している既成概念・常識。
### 日本の作文(社会):
## 訓練の仕方
### アメリカ式(主張→主張を支持する根拠→主張、prep):
意識的な訓練が必要。アメリカでは小学一年生から『私は〇〇と考える。なぜならば...』と定型化された言い方で意見を述べる訓練を行う。
### フランス式(ディセルタシオン):
正、反、合のそれぞれの視点から距離を取る修辞学的な自己を確立することが求められる。
フランスの高校三年間で暗記した哲学や文学、歴史、美術史、思想史の知識が、社会生活のあらゆる判断や行動の根拠になるためには、ばらばらの知識が価値のフィルターを通して体系化され、教養にまで高められる必要がある。この時、弁証法の型を使って思考し書く訓練が、政治的な価値に基づいて血肉となった知識を使いこなす力を養う。
### イランの作文(法技術):
イランでは、初等教育から中等教育にかけて、①自然現象②社会と道徳③宗教④国家について扱う作文を書く。
### 日本の作文(社会):
感想文を書くことで、共感の感覚を養うことができる。
小説を読んだり、映画を見たり、多くの人と関わったりする経験を積み、社会の常識と人間に関する蓄積した知識を、他人の主観を共有する間主観性の構築にまで結び付けられる能力が必要。自分がされて嫌なことは人にはしないという言葉に反論を持つ人(別に自分はされてもいい)は、この能力が足りないのでは?
## なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか
四か国に代表される四つの領域のそれぞれの視点に立つと、他がどのように非論理的に見えるのかをシステマティックに比較し、その理由を考察する。
### 経済領域から見た政治の論理
政治領域のディセルタシオンの弁証法は結論までの手続きが長く時間がかかりすぎる。不要な要素を混入させることで議論を無用に複雑にしているように見える。そもそも論証とは自己の主張の正しさを証明するためのモノなので、それに反する主張の論証に同じ時間をかけるのは無駄に見える。
時間は最も貴重な資源であるので、そのような貴重な資源の使用を書き手のみならず読み手にも強いるディセルタシオンは経済論理からすると不道徳ですらある。
### 経済技術から見た法技術の論理
ことわざや詩の一説で結論を締めくくるやり方は、教訓のお話のように映る。法技術(エンシャー)も経済領域(エッセイ)も作文構造としては、いずれも決まった結論に行く目的論的な作文である。しかし、エンシャーには過去の言葉に倣うことが良しとされており、変革や独創性を目的にはしていないが、エッセイは個人の主張を書き、革新的な文章によって人々を納得させ、人を動かすことがエッセイの目的である。
### 経済領域から見た社会の論理
社会原理の感想文は体験から感想を引き出しているので、意見・主張と事実を明確に分けていないように見えてしまう。意見と事実を分けることは経済領域では論証を行うときに最初に習う初歩的な技術なので、それができていないとみなされてしまう。
常識をなぞるような感想や感じたままを綴る生の感情の提示には面白みを感じることができない。生の感情はその感情を的確に表現できる書く様式を選択し、型にあてはめ、言語技術の技を通して伝えることがアメリカでは期待されているから。
### 政治領域から見た経済の倫理
経済領域のエッセイの、一つの味方で押し通し、議論の余地を残さない論証のやり方は、全く不十分であり、決定において間違いを起こしやすい短慮の議論の手続きとみられる。
政治領域のディセルタシオンは説得ではなく合意形成が最終目的である。そのためフランスの学校ではまず学習する事柄の定義から始め、あらゆる機会に辞書を引いて言葉の意味する範囲とその場で使う意味の確認を行う。それは何かと問うのは哲学の基本的な方法であり、政治の議論は何が社会によってよいものなのかを明らかにしなければならない哲学的な側面があるからである。経済や科学技術における数値の判断とは違った種類の判断が行われる。政治領域(ディセルタシオン)も経済(エッセイ)も論証することが重要であるが、それを個人の主張の正しさの証明を目的とするのか、あらゆる可能性の吟味を目的とするのかによって必要な手続きは変わってくる。あらゆる可能性の吟味は、同じ問いの答えが条件を変えるとどのように変わるのかであらわされることが多い。正ー反ー合の合で求められるのは、これらの条件の違いを超えるまた別の条件下におけるより包括的な答えである。
### 政治領域から見た法技術の論理
結論が決まっている法技術領域のレトリックは自由の権利の侵害とみなされる。政治的な事柄を真理として教えることは慎むべきである。フランスはこのような宗教の統治から脱出するためにディセルタシオンをした。それと引き換えにフランスは自らの統治の方法を創り出さなければならず、その方法で有効とされたのが哲学であり弁証法だった。
### 政治領域から見た社会の論理
政治領域も社会領域もともに、利他を価値としている。しかし、政治領域は抽象的な政治主体を想定し、古典の引用をもとに抽象的なレベルで権利や義務、社会契約などの政治思想を通して社会の公益を考えるのに対して、社旗領域では具体的な個人とその状況を基盤に利他の在り方を道徳感情的にはぐくむという点に違いがある。感想文は感情的に常識をなぞるものであるため、常識を乗り越える者の味方の発見を目指す弁証法からすると、凡庸かつ学問的厳密性に欠ける子供っぽい議論に見えてしまう。
### 法技術領域から見た経済と政治の倫理
法技術領域から見ると、経済領域(エッセイ)の「私は・・・と考える。なぜならば・・・」という論理は、個人主義的で社会全体の秩序にとって危険であるとみなされる。この論理は、前提となる目的が個人によって立てられるため心理を保証しない。
さらに法技術領域から政治領域を見ると、弁証法も心理を保証せず、非論理的であるとみなされる。なぜなら弁証法においては事実であるべき前提は、論じる目的に応じて書き手が定義するから。さらに、弁証法における論証が古今の著名な作品の厳密な引用によって支店ごとになされていても、正ー反から合うへの跳躍の根拠は書き手の意味付けによって創られるからである。法技術領域で用いられる三段論法と政治領域で用いられる弁証法では、論証の目的のベクトルが逆を向いているのである。
法技術領域においては、論じる際の大前提は人間が勝手に変えてはならない。自然の法則が変えられないように、聖典も変えられない。問いの答えが偶発的に開かれている弁証法は結論が一つに決まる法技術領域の真理とは相いれない。絶対的な真理のもとでは、弁証法は意味をなさないものなのである。
### 法技術領域から見た社会の論理
法技術領域の作文では、背景に神によって秩序立てられた世界を想定するので、より普遍的なものであるのに対して、社会領域の作文では、自分が見たり感じたものをそのまま書くので、普遍的ではない。
### 社会領域から見た経済の論理
経済のエッセイの、自己の主張のみを一方的に述べるスタイルは、多様な意見や価値観を持つ他社への配慮に欠けるとみなされる。感想は個人がそれぞれ感じるものであり、読み手は書き手の経験を追体験することで共感をもって書き手の感情を受け入れることが重要であって、その正誤には目が向かない。
エッセイにおいては経験的知識はあくまで材料であり、目的を達成するための道具でしかないが、感想文における個人的な経験は成長の証でありそれ自体が価値を持つ。同じように経験的知識は用いるが、その価値が異なるのである。
### 社会領域から見た政治の論理
社会領域の感想文には起承転結があり転で異なる視点に飛ぶ。そのため、政治領域のディセルタシオンの正ー反から合へと飛躍する展開には理解と興味を示す。日本ではフランスの弁証法を論理的な議論を行う新たな形として推奨する向きもある。しかし、合と転の違いは、合が正と反を総合して結論に影響を与えるのに対して、起承転結の転は基本的には結論には直接影響を与えないという点で異なる。転の役割は、別の視点から主題をとらえなおして主題の多面性を開示したり、主題の展開に変化と面白さを与えたりすることである。
起承転結は文学的な章の構成法としては役に立つが、人々を説得するための言論にはあまり役に立たない。なぜなら、起承転結には論証方が欠けているが、人を説得するための弁論には論証性が不可欠だからである。
### 社会領域から見た法技術の論理
ことわざや詩の一節で結ぶことを推奨する法技術の作文は児童生徒を型に押し込め、子供らしい感情や学びの在り方を阻害するものとして映る。そもそも主赤井領域の作文は、概念砕きを目的としているので、子どもは宗教的思想に縛られずに自由な発想をすべきととらえられている。
## 論理的思考とは何か
論理的思考は目的に応じて形を変えて存在する。つまり領域ごとに異なる目的を達成するために最も適した思考法が存在するということ。
## メモ
論理学は演繹的操作による真理の証明を目的とするときに最適。
レトリックは一般大衆の説得を目的とするときに最適。
科学は物理的真理の探究を目的とするときに最適。
哲学は形而上学的真理の探究を目的とするときに最適
言語の違いよりも思考の型の違いによるコミュニケーション不全の方が深刻である。
議論を始める前に何を優先させるのかの合意をまず形成することは、目的を明確にし、どの領域の思考法を使うかの決定に役立つ。
議論の手続きそのものについて事前に考えておくのも重要。なぜなら、結論を導くための有益な情報の種類、情報を集める範囲、踏むべき段階が領域によって異なるから。
最近日本では、論文の書き方やビジネスの指南書でアメリカ式のエッセイが唯一無二に方法であるという認識が広がりつつあるが危険。ほかの領域の思考の利点も理解しておくべき。
こうしたレトリックの技術は、日本ではなかなか教えてこられなかったが、インターネットやAIの普及により知識や情報そのものの価値が下がる中で、知識を能力に変えるための大事な技術となる。
論理的であるとは、何がどのような順番で並べられて結論を導くかについて書き手と読み手の双方の間に合意が成り立っているときの状態をいう。何がどのような順番でというのは社会や時代によって異なる。つまり、論理的に考えるということは、育った環境や信条も好みも異なる個人が、パターン化された思考をもとに非個人的に安定して伝達可能な形で考えることである。
日本の作文は、時系列に並べて一文で説明するが、アメリカの作文はPREP法のように先に結論を述べ、次に根拠、最後に結論を述べる〜=エッセイ型。
目的と場合によってこの四つの型を使い分けることが、次の時代の論理となり、また力になる、論理的思考から多次元思考へのシフト。これにより文化の壁を壊せるかも。でも食生活とか居住環境が違うからこれだけはダメかも。
話の矛盾をなくすように議論をするのはもちろん有効だが、それだけでスムーズに意思疎通できるわけではない。むしろコミュニケーションがうまくいかないのは、お互いが違う領域で思考しているからである。なので、相手がどの思考の型を使っているのかを把握するのも大事だし、自分自身がどの思考の型を使っているのかを把握するのはもっと大事。それによって見えない文化衝突を回避できる。
また、人が怒りの感情を爆発させるのは職業や社会的地位に関係なく自分の常識に挑戦されたときである。自分がどの領域の常識なのかを知ることができれば俯瞰的に物事を見ることができ、アンガーマネジメントもできる。
パラダイムシフトとは、一般に支配者の交代や政治体制の変化を指す。それに対してパラダイムシフトとは、それまで支配的だったものの見方や考え方が変わることを指す。
一度きりのやり取りではなく、やり取りを繰り返し行う場合、裏切るよりも協力した方がより多くを得られるのはゲーム理論で証明されている。
思考の技術を使いこなすには、まず解きたい問題の目的を特定して、その目的に合った思考法を選ぶ。
やっぱり目的が大事。AIのプロンプトでもそう。
命題は真か偽かのいずれかであり、真ん中はない。ということは、量子論は論理学が適用できないのであろうか。ならば、論理回路が使えず、コンピュータはどうやってつくるのか?→量子論理なるものが存在する。
思考において究極的に重要なのは論理ではなく、それと正反対の閃きや飛躍である。論理は、閃きによって得た結論を誰にでも納得できるように、そして閃きを必要としないように飛躍のない形で再構成し、まだその結論に到達していない人に向かって説明するときに用いられるものである。
論理的であるということは、読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいるということby kaplan1966:5。この順番が、文化によってまちまちなため衝突が起こる。なので、世界共通の論理学の形式論理とは異なる論理の考え方だ。
論理的に思考することと、合理的に行動することは連動している。なぜなら合理的な行為は、各領域の論理によって決まるから。なので、ある領域で合理的なことが、別の領域では不合理になる。
合理性は、ウェーバーによると、目的そのものの価値を考えて特定の理念、理想を達成しようとする実質合理性と、特定の価値や内容とは無関係に、目的に対する手段を計算や法則、規則を適用して技術的、道具的に選択することを指す形式合理性の二つに分けられる。形式合理性は結果を意識するのに対して、実質合理性は過程を意識するので、どちらを選ぶかで合理的な行動が変わる。これら二つが対立することで争いが起きる。それぞれの合理性で動いている人は、その合理性が正解となるので対立の溝は深まるだけ。経済領域は形式合理性による主観的判断、政治領域は実質合理性による客観的判断、法技術領域は形式合理性による客観的判断、社会領域は実質合理性による主観的判断。これら四つの領域はどの文化にも併存しているが、どの領域をどれだけ重視するかの違いで、文化間の違いがあらわれている。
モフェットは作文構造を、演繹的作文(アメリカ式と帰納的作文の二つに大別した。演繹的作文の完成度は、主題定自分である主張を頂点とした明確な序列によって測られる。つまり、段落や文書は主題に直接関係する最も重要な情報から、より詳細な補助的な情報へと並ぶ構造になっているべきなので、主張の支持という目的に照らして最も効果的な配列を考えることが求められる。
アメリカにおける作文法の改革は、19世紀の終わり頃から大学入試制度の標準化を行う中で進んだ(Hobbs and Berlin 2001)。
結論を先に述べて事実で論証するエッセイの型は、文化的な慣習の影響や言語の違いによる表現法の影響を受けにくい。
ディセルタシオン(政治・フランス)の利点は、人間は放っておけば利己主義になるが、哲学の方法を借りることで共通善について考え、そのために行動できる思考法を理知的に身につけられる点。
文章を書く時の利点は、前もって全体の構成をじっくり考えられること。それに対して口頭で話すことの利点は、決まった韻を踏む膨大な量の語彙を習得したり、ことわざを構成の原理として用いたりすることによって、もとの話やトーンを変えることなく、その場の聴衆の要望や雰囲気に合わせて詩や話を無限に作り変えることができる、即興性と創造性である。これ等の能力は、ことわざや詩を使った物語を書く練習問題を繰り返すことで強化される。
作文の型は思考の型を形成する。それが社会の主流文化と切り離されたものであれば、根付かず廃れるか、社会に適合するように似て非なるものへと性質を変化させてしまう。
イランの教科書では、神の存在が以下の理由で証明されている。神は物質的ではないので、人間の感覚と経験を利用して、世界に存在する秩序を確認し、その秩序を徴として神の存在へと導く。そして、因果証明を論拠の一つとすることで、人間の理性によって世界が神により創造されたものであることを確認できる。これを初等教育や中等教育でやってしまうのは、洗脳?メリットもあればデメリットもある?創造性が失われる?詳しくは以下。
- 前提
秩序の集合体とは、すべての部分が一つの目的のために相互に協調することから生まれる。
- 主張
世界に存在する秩序の集合体を確認し、その秩序を徴とみることで、神の存在と、神の目的と計画を知ることができる
- 論拠
なぜなら、自然界におけるモノや事柄には、多様な状況があり得る中で、秩序を体現する特定の状態が集合体となり現実に存在することは、偶然では説明できないからである。それほどに、秩序の集合体は完全なのものである。
- 根拠
たとえば
①人間の各部分や器官はそれぞれがその役割を果たすことで、人間という全体の生命を維持する目的を果たしている。
②ニュートンの万有引力の法則も驚くべき太陽系の秩序を示している
③西洋の著名な科学者たちも、彼らが発見した自然法則の背後に神の存在を確信し書物に記している。
- 結論
したがって神は存在し、秩序の集合体の徴から神の目的と計画を知ることができる。
日本の感想文は、子供の作文と言われ、日本人が論理的に書けない元凶と揶揄されているが、実は独自の論理を持っていて、社会領域に特徴的で重要な役割を果たしている。
感想文とは、生活の中の直接の体験や、自己の見聞、読書、視聴したことについて、自分の感じたこと、思ったことを書き表した文章だと定義されている。
もともと漢詩の構成法として日本に伝わった起承転結は物語のレトリックだと受け止められているが、日本語による多様な語りを構造化する唯一の組織原理であるとされ(Hinds 1980)感想文にも効果的である。
日本の作文には、他者の感想と自分の感想を共有し、ずれを調整していく機能がある。あなたはどう感じるか、どう思うという気持ちを常に問われ、書き、他者と確認しあった体験が、社会領域に特徴的な思考法を形成する。
道徳の起源は、共感を通じて他者の苦しみや喜びを理解することである。
日本の国語の心情を問う問題は、外国の試験と比べて突出して多い。
日本に治安がいいのは、共感力が高いからではないか。その共感力は、感想文を書くという教育によってつくり上げられてきたものではないか。感想文を書き、他者と共有することによって、様々な人の視点に立って物事を考えることができる。ほかの国では感想文を書くといいう教育はほとんどないため、日本のように治安のよい国がないのではないか。しかしその強みは諸刃の刃となって、戦略的にふるまったり駆け引きしたりすることに心理的抵抗を感じ、好機を生かすことができにくい、決断力の欠如という弱みを生み出すと批判されてきた。しかし、21世紀の世界において、複雑に原因が絡み合い、予測不可能性が高まったので、この慎重な態度が想定外のリスクを低減し、大きな間違いを起こさず柔軟に対処できる賢明な判断の方法になりつつある。
## 読書感想文を書く利点
様々な目的があると思うが、私が納得したのは、「境遇が異なる級友どうしであっても、同じ物語の同じ主人公の視点に立って、その主人公の心象を語ることができるから」というものだ。社会で生きていくために役立つ共感力をはぐくむためには、様々な人の視点に立って物事を考える必要がある。その能力を鍛えるためには、様々な境遇の人の感性に触れ、自分と社会とのずれを調整していく間主観性が大事であるが、普通に感想文を書くと貧富の差や境遇の違いから軋轢が生まれやすい。しかし、読書感想文においては同じ主人公の視点から考えられるのでそれはメリットである。
しかし、この点については以下のような反論や考察もできます。
「同じ主人公」を、本当に「同じ視点」で見ているか?
実は、読書体験は完全に平等ではありません。同じ主人公を見ていても、読者が持つ境遇、価値観、経験によって、その主人公への感情移入の仕方や解釈は大きく異なります。例えば、貧しい家庭に育った子が裕福な主人公の苦悩を「贅沢な悩みだ」と感じるかもしれませんし、逆に、恵まれた環境の子が貧しい主人公の行動を「なぜそんな危険を冒すのか理解できない」と感じるかもしれません。つまり、主人公という共通の対象を介して、かえって自分たちの境遇の違いや価値観の差が浮き彫りになるという側面があります。これは軋轢を生む可能性もあれば、相互理解のきっかけになる可能性も秘めています。
共感力の育成は「同じ視点」に立つことだけではない
真の共感力とは、自分とは全く異なる立場の人の感情や思考を「自分とは違う」と認識した上で、なぜそう考えるのかを想像する力です。もし全員が主人公と「同じ視点」に立ててしまうと、それは単なる同化に過ぎず、「異なる他者」を理解する訓練にはなりにくいかもしれません。読書感想文の発表や共有の場で、「自分はこう感じたけど、〇〇さんはそう感じたんだ。なぜだろう?」と解釈のズレを発見し、その背景を想像し合うことこそが、より高度な共感力や間主観性の育成に繋がるのではないでしょうか。
読書感想文の「他の」目的
ご提示いただいた共感力の育成以外にも、読書感想文には以下のような重要な目的があります。
思考の言語化と論理的思考力の育成
心の中で「面白かった」「感動した」と感じるだけでは、思考は漠然としたままです。なぜ面白かったのか、どの部分にどう感動したのかを文章にするためには、「自分の感情の正体」を突き止め、その理由を論理的に説明する必要があります。これは、自分の内面を客観的に分析し、他者に伝わるように再構築する高度な知的作業です。
自己発見と対話の機会
本は、自分を映し出す「鏡」のような役割を果たします。物語の登場人物に共感したり反発したりする過程で、「自分はこういう考え方をする人間なんだ」「自分はこういうことを許せないと感じるんだ」と、自分自身の価値観や倫理観を発見するきっかけになります。読書感想文を書くことは、本を通して自分と対話する行為とも言えます。
抽象化能力の訓練
優れた読書感想文は、単なるあらすじや感想の羅列ではありません。物語という具体的なエピソードから、「友情とは何か」「人生において大切なものは何か」といった普遍的なテーマや教訓を自分なりに引き出し、一般化する能力が求められます。これは、物事の本質を捉える「抽象化」の訓練になります。
世間一般で言われる読書感想文の利点
一般的に、教育現場などで強調される利点は以下の通りです。
読解力:物語の構造や登場人物の心情、筆者の意図を深く読み解く力がつきます。
文章力・表現力:自分の考えを的確な言葉で、分かりやすく構成して書く力が向上します。
思考力:物事を多角的に見たり、論理的に考えたり、批判的に吟味したりする力が養われます。
想像力と共感力:自分の知らない世界や多様な人生に触れることで、想像力が豊かになり、他者への共感性が育まれます。
語彙力:本を通して新しい言葉や表現に触れ、それを使うことで語彙が豊かになります。
知識・教養:本の内容そのものから、歴史や文化、科学など様々な知識や教養を得ることができます。