思考の整理学

一覧に戻る
思考の整理学

著者名: 外山 滋比古

ページ数: 268

種類: 読み物

おすすめ度: ★5

読了日: 2026年2月10日

一言要約:
よくあるハウ・ツー本のようにやり方を説いた本ではなく、まるで思考の哲学書のように感じた。情報の効率的な処理技術を説くふりをしながら、実は"忘れること"や"睡眠"といった人間本来の生理機能を触媒とし、受動的に知識を詰め込むだけの学習者から、時間をかけて自らの頭で新たな概念を醸成できる思索者へと脱皮するための、思考の生態学(エコロジー)である。

アフィリエイトリンク:

読書中の感想:
思考を整理するためには〇〇すべきだみたいな技術の話かと思っていたら、1章で、義務教育についての問題点?について語り、思考をするのは夜するよりも朝する方がいい気がするみたいな話から始まり、朝飯を抜いて、昼食後寝ることで朝飯前を強制的に2回作るという強引な発想がかなり面白かった。

思っていたよりも興味深い内容。

著者が研究者の方なので、アイデアの発想に関する話がかなり面白かった。やはりどの分野でも、専門分野外からアイデアをひらめくというのが王道なのだろうか。

昔の人(かなり昔)は、教えるのが上手だった。師匠は、弟子を持つと、弟子に技のすべてを教えず、雑用を任せることが多い。これは優秀な師匠ほどそうで、何故かというと、教えてもらいたいことを教えてもらえなかったら逆に学びたいという意欲がさらに沸き、より多くのことを吸収できる。逆に、受動的に学ぶ現代の義務教育は、その学びたいという意欲を全く上げないので、学習効率が悪いし限界が来る。それを昔の人はわかっていたのに、なぜ現代の義務教育はこんなにも受動的な教育になってしまったのだろう。スタートラインをそろえるため?まぁ揃えないと大規模教育は実施できないからね。それとも国の奴隷にするため?でも長期的に見たら国にとってもマイナスだよね。当時の政府がそこまで何も考えない集団だったとは思えない。大いなる意義があるのでは(陰謀論)。

ものを考える人間は、自信を持ちながら、なお謙虚でなくてはいけない

著者の主張は根拠があるものの、ただの偶然では?と思うことが多い。

物事をありのまま伝えるのが一次情報。一次情報を集めて要約したり、加工したりする(抽象化)のが二次情報。二次情報を集めて要約したり、加工したりするのが・・・。そして論文は三次情報以上であるべきというのがこの本の筆者の考え。しかし、いきなり三次情報から書いていくのではなく、一次情報から順番に昇華させていくべき。書くのにも高度な抽象性が求められるし、読んで理解するのも専門的な訓練が必要。この、一次情報の断片を抽象化していく作業が、これまでに述べた寝かせるとか、化学反応とかの話。整理・抽象化を高めることによって、高度の思考となる。普遍性も大きくなる。コミュニケーションをするときは抽象的(高次)ではなく具体的(低次)に話をしろと言われるが、これは他者に伝えるとき。自分で思考を整理するためには、逆の一次情報から抽象度を上げていくことが必要になる。この、一次情報から抽象度を上げていくことを思考の純化と呼ぶことにする。でも、他者に伝えるときは高次から低次へ変換し、自分で思考を整理するときは低次から高次に変換しないといけないということは、可逆的であるべきなのか?

記憶は頭に入ると勝手に変化するらしい。

何かを調べるときは、まず、何を、何のために調べるのかを明確にするべきとあった。これは完全に同意。私は普段もできていると思う。と思っていたができていないのかもしれない。私は本を読むときは何となく面白そうで、何となく役に立ちそうな本を読んでいる。それで、本に書いてある内容はこのようにメモを取り、何でも役に立てようとする。それよりかは目的をもって本を読み、目的以外の情報は遮断すべきなのだろうか。

何かアイデアや考えをふと思いついたときに、メモをしないと記憶から消えてしまうことがよくある。なぜ消えるのだろうか?これは、今日見た夢を覚えていないのと同じことなのだろうか?夢を記録する(Do ゆめにっき)とダメみたいなことが言われているから、思い付きをメモに残しておくことも危険なのだろうか。

メモを取るのは手書きの方がよいのであろうか。何となく、本を読むときは電子よりも紙媒体の方が頭に入りやすいし、そういう研究もあった気がする。でも、メモはどうだろう。昔の人はメモ帳を持ち歩いて、メモをしていたが、俺は令和に生きる若者だ。メモはアプリの方が早いし便利だ。でも、手書きをすることによる恩恵が受けれなくなるのでは?そもそも手書きとキーボード入力は違うのか?どちらも手を動かすことだ。それは本を読むときも同じで、同じ形の文字をディスプレイで見るか、紙で見るかの違いしかない。ということは、メモも紙媒体でした方がよいのだろうか。そこら辺を調べている研究はないのか。
→コンテクストの違いなのでは?
人間はコンテクストによって縛られる。ある人が、転校先の学校で人が変わったように(活発になる場合も、消極的になる場合も、そのほかも)なることが多い。アイデアにおいても、アイデアを羅列していると、コンテクストに引っ張られることがある。良い場合もあれば悪い場合もある。上述した寝かせろというのは、コンテクストを変えるという目的もある。紙媒体と電子媒体では、コンテクストが違う?電子ではコンテクストが悪い方に作用またはコンテクストが機能していない?

新めて、メモアプリを作ろうと思った。

この著者がやっているように、メモの一覧を見て、我が思考ここにありと思いたい。

人間は言葉を覚えて忘れることがうまくなったという記述が気になった。深く考察してみたい。

50年前のことはよくわかるのに、今のことはよくわからない。時代の色眼鏡を書けているから、先述したコンテクストを受けているから、正確に判断することができないのか?文学史家は50年前や30年前のことまでは書くが、現代のことについては書かない。古典は時代を経るにつれて意味が変わっている。例えばガリバー旅行記は、昔は政府を批判する風刺だったが、現代では意味が全く違う。このように、時間を経る(時間をかけて寝かす)ことによって、色眼鏡抜きの本当の評価がされる。しかし、この未来から見た今の評価が、本当の評価といっていいのだろうか?今を生きる人が、今を正確に評価する術はないのだろうか?なぜ、ないのだろうか?何が邪魔を指せているのか?コンテクストならば、コンピュータ(AI)が解決できるのではないだろうか。
→この本の著者は、時を経る=忘却することと言っていた。この古典化(50年後の未来から見た評価)を促進するためには、思考を整理することが有効だと言っていた。そして、思考を整理するためには、忘れる技術(寝かせる技術)が必要だと言っていた。思考を整理することで、年月が経っても風化しにくいような素晴らしいアイデアが厳選されるのではないだろうか。しかし、この厳選は自分の中でいわば時を加速して行っているものなので、周りの人に理解されないのではないか。先人たちが、自分が亡くなってから評価されたという事例が相次いでいるのは、その先人たちも自分の中で時間を加速させていたからではないか。ということは素晴らしいアイデアとはすなわち、周りに反対されるような、理解されないようなアイデアではないか。また、そのようなアイデアを周りに理解してもらう方法はあるのか。アイデアを理解されないというのは、素晴らしいアイデアの必要条件なのだろうか。でもアイデアを実行するためには一部の人に伝え、協力してもらわないといけない。そうして洗脳技術が生まれたのでは?洗脳が問題視されているのは、そのように素晴らしいアイデア理解してもらうために生まれた洗脳技術が、素晴らしくないアイデアに悪用されてしまったからではないだろうか。

知識はただあるだけでは役に立たない。組織された知識でなければ意味がないと著者は言っている。

好きなものを嫌いになる時、あるいは飽きる時、何が起こっているのだろうか。一説としは、知識が飽和してしまって(終端速度のような感じで)、どれだけインプットしても貯まっていかないから、刺激がなくて飽きてしまうというものがある。この、個人がインプットできる量には個人差があるというのが普通の考えだと思うが、もしかしたら全員一定かもしれない。個人差があるように見えているのは、インプットしたものを整理し、体系立てたり捨てたりしていて、その差が出ているだけなのかもしれない。まぁでも身長とかはみんな違うからそこも個人差があるのかな。

知識は、初めのうちはインプットをすればするだけ上がっていくが、どこかで壁にぶち当たる。一つのことに30年打ち込んでいる人が、必ずしも成果が出ないのはそのため。ある一定量、知識が飽和したら、そこからは闇雲にインプットするのではなく、知識の整理が重要になる。これまで得た知識を、体系立てたり、他の知識と絡めたり、捨てたりすることが大事。上述の通り忘れることも大事。

この本の著者も、とにかく書いてみることが大事だと言っていた。書いてみると、筋道が見えてきて、筆が進んでくると。これに関しては完全に同意なのだが、人によっては書いても書いても意味が分からない支離滅裂な文章になることがある(後輩を指導しているとそう感じている)。なぜなのだろうか?どうすれば書けるようになるのだろうか?何の能力が足りないのであろうか。

やはり褒めることは大事だ。俺もすごい人に褒められると超うれしい。でも、俺はあまり人を褒めない。たまに褒めるけどね。今度から滅茶苦茶に褒めよう。怖がられるかな。これは、ブレインストーミングで、どんなアイデアでも否定的な意見を言ってはいけないというのと通ずるものがあるのかもしれない。


第一次的現実の話がよくわからなかった。具体例が少なかったから?自分が未熟だったから?

これまで、世間でAIによって仕事が奪われると言われてきた。そうなんだろうなと思ってきた。また、世間で、Aiによって人類は支配されると言われてきた。いやいや、さすがにそれはないだろう。人間が作っているんだしと思ってきた。しかし、自然淘汰を考えると、AIが人間よりも優れていることは、少なくとも事務作業や機械的作業においては明白。自然淘汰されないためには血眼になって、AIにはできない人間しかできないことを探さないといけないと感じた。また、答えをすぐに出さないといけないという感覚ではなく、生涯をかけて、そういうものを探すことを目標にするべきなのではないかと感じた。考え続けることは、しんどいことだと思っていたが、見方によっては、これほど贅沢な楽しみはないのかもしれない。

目覚めが悪い原因は、頭の中の整理ができていないからかもしれない。知識はため込んでいると、知識メタボのようなものになるため、不必要な情報は忘れた方がいい。人間は本能的にこのことを理解していて、レム睡眠中に思考を整理(不要なものを忘却)する。しかし、現代では入ってくる情報の数がけた違いに増加しているため、レム睡眠だけでは思考の整理が追いついておらず、目覚めが悪いのではないだろうか。目覚めをよくするにはどうすればいいのだろうか。寝るだけで忘却が不十分な場合は、この本によると歩くことを勧めると書いてある。歩くことで血の巡りがよくなり、散歩の間はほかのことができないのでぼーっとすることができるからだと。でも自分は散歩中も結構いろんなことを考えてしまう。ボーっとする時間が大事なのだろうか。この本の続きによると、開始30分間は散歩中に考え事をしないほうがいらしい。それまでは血の巡りがよくないからだそう。30分間は何も考えないことを意識してみる?まぁ、血の流れは加速できないから、これは時間に縛られる必要があるのかもしれない。


---
アイデアは寝かせるべき、寝かせて、いい頃合いになったら素晴らしいアイデアへと昇華する。急ぐべきではないという記述があった。この寝かせるというのは、本書では時間が過ぎるのを待てと書かれていたが、そんなことをしていては命が何個あっても足りない。やはり時間を加速させるしかないのか。(論理の飛躍)
→寝かせることによって、個性を消すことができるから素晴らしいアイデアが生まれるのかもしれない。本書では、化学反応を例して、自分の個性(主観)は触媒であり、異なる領域のアイデアどうしが結合するときにそれらをつなぐ役割を果たすと言っていた。化学反応において、触媒は化学反応を促進させるが、触媒の質量は化学反応前と後で変わらない。これをアイデア発想に変換すると、自分の個性で考えてアイデアを発想するのはよくなくて、個性をなるべく消して(でも個性はそこに必要で)、異なる領域のアイデアが組み合わさる触媒になるように個性を使うべきだと言っていた。この個性をなるべく消すという作業が寝かせるということであって朝に頭がさえているのは個性が薄くなっているからではないか。

アメリカの女流作家が「ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう」と言っており、このひとりとは、恋人のことだそう。恋人が一人だけだとその人のことしか見えなくなって、秩序を乱してしまうという意図らしい。これを、着想・思考でも同じではないかと本の中に書いてあった。研究テーマにしても、一つのテーマに固執していては進まない。何個か候補をあげて、どれがよさそうかを競争させて一番よさそうなのを選ぶというのが著者の意見で、これはなるほどな、確かになとなったが、学生のうちから何個も研究テーマを持つのは無理じゃね?しかも学部生で。
→この、一つの物事に取り組んでいるとかえって視野が狭まるというのは、探し物をしているときに別の探し物が見つかるみたいなものと同じなのではないか。セレンディピティ。素晴らしいアイデアを発想するためには寝かせるという話があったが、寝かせることによってそれがメインテーマではなくサブテーマになるので、そういう面でも寝かせるのが良いことの証明?授業とかで話が脱線して雑談に行くのもそれと同じなのではないか?授業の主目的から外れることによって、授業を受けている生徒は雑談の内容の方が鮮明に覚えていることがある。

読書には、既知の物を再認識する読書と、未知の物を理解する読書、新しい世界に挑戦する読書の三種類がある。学校教育ではまず最初に普段使っている言葉の読み書きを教えるので、既知の物を再認識する読書から始まる。しかし、未知の物を理解する読書のやり方を明確には教えない。既知の物を再認識する読書と未知の物を理解する読書が混ざったものが、小説など。小説はストーリーがあるので、未知の物でも想像しながら読み進められる。しかし、未知の物を理解する読書単体はやらない。だから、日本人はストーリーのあるもの、ゴシップは好きなのに、それ以外のまじめな話には興味を惹かれないのでは。小説のような文学作品が既知の物を再認識する読書から未知の物を理解する読書に移行するために必要なのだが、未知の物を理解する読書ができるようになろうと思っている人は少ない。日本語ではそんな感じだが、外国語はそうではない。例えば、漢文の暗唱などは、いきなり新しい世界に挑戦する読書に突入するようなもの。そのように考えると、漢文の暗唱は良い訓練だったのかもしれない。読書論の名著であるモーティマー・J・アドラーの『本を読む本』にも似たような記述がある。

読了後の感想:
"素晴らしいアイデア"を発想するためには、「アイデアは寝かせるべきだ。寝かせて、いい頃合いになったら素晴らしいアイデアへと昇華する。」という記述があった。
この"寝かせる"というのは、本書では"時間が過ぎるのを待つこと"と書かれていたが、そんなことをしていては命が何個あっても足りない。やはり時間を加速させるしかないのか。(論理の飛躍)
→"寝かせる"という行為の本質は、時間の経過そのものではなく、"個性を消す"ことにあるのではないか。
本書ではアイデアの生成プロセスを化学反応に例え、自分の個性(主観)は触媒であり、異なる領域のアイデア同士(AとB)が結合するときにそれらをつなぐ役割を果たすと言っていた。
触媒とは、自身は変化せずに、異なる物質同士の反応を促進させる物質のこと。例えば、酸素と亜硫酸ガスが結合するにはプラチナという触媒が必要だが、反応後もプラチナはプラチナのままであり、生成物に混ざり込むことはない。
これをアイデア発想に置き換えてみると、触媒=自分の個性ととらえることができるのでは。
もし、自分の個性を化学反応の材料として消費してしまえば、それは「A(情報)+B(情報)+C(自分)」という濁った結合になってしまう。理想的なのは、AとBが結びつくのを助けるためだけに、自分の個性を「C(触媒)」として機能させることではないか。
しかし、起きている間の私たちの脳内は、"我のノイズ(防衛本能・見栄・損得勘定・焦り)"で溢れている。これでは個性が主張しすぎて、純粋な触媒になれない。 そこで睡眠の出番。寝かせるとは、意識のスイッチを切ることで、この"自我というノイズ"を濾過する作業と言い換えられるのではないか。
朝、目覚めたときに頭が冴え、ふとアイデアが降りてくるのは、睡眠によって過剰な我のノイズが薄まり、脳が純粋なプラチナ(触媒)の状態に戻っているからではないか。
つまり、素晴らしいアイデアを得るために必要なのは、物理的な時間を加速させることではなく、睡眠という儀式を通じて自分の個性(ノイズ)を薄め、自分自身を透明な触媒へと整えることこそが素晴らしいアイデアを発想するためには重要なのではないか。
つまり、そういう面でも睡眠は大事なのではないか。


あるアメリカの女性作家が、こんな言葉を残している。 「ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう」
この「ひとり」とは、恋人のことらしい。たった一人の恋人にすべてを捧げ、執着してしまうと、視野が狭まり、世界全体の秩序が見えなくなってしまう――そんな警句。
これを知的生産の現場にも当てはめると、一つの研究テーマやアイデアに固執していると、思考は膠着する。だからこそ、複数のテーマを競わせ、最も良いものを選ぶべきと書いてあった。
理屈はわかるけど、学生、特に学部生にとって、複数の研究テーマを同時に回すというのは無理じゃね?と思った。
→そこで、この「複数を追う」という教えを、「視点をずらす技術」として解釈し直してみた。
一つの物事に集中しすぎると、かえって大切なものが見えなくなる。
これは、探し物をしているときに、ふと別の探し物が見つかる現象(セレンディピティ)と同じでは。 探し物が見つかるのは、必死に探している時ではなく、ふと力を抜いて全体を眺めた瞬間。
「アイデアを寝かせる」という行為の正体も、ここにあるのでは。 寝かせるとは、そのテーマをメインの座から降ろし、一時的にサブ(片手間)に格下げすることなのでは。脳のメモリを解放し、リラックスさせることなのでは。
これは、授業中の風景によく似ていると思った。 必死に板書を写している時の記憶より、先生がふと脱線して話し始めた雑談の方が、なぜか鮮明に覚えていることがある。 授業の主目的(メイン)から外れた瞬間、脳のガードが下がり、情報が感情と結びついて深く刻まれるから。
つまり、素晴らしいアイデアを生むためには、真面目に机に向かう時間を「加速」させることよりも、意識的に脱線し、メインテーマをサブテーマへと相対化する時間が不可欠なのでは。一人の恋人に溺れるのではなく、適度な距離感を保つことこそが、創造の秩序を守る鍵なのかも。


タイトル: 漢文の暗唱は実は良かったのではないか?
知的活動には、既知の物を再認識するもの(A)、未知の物を理解するもの(B)、新しい世界に挑戦するもの(C)の三種類があると言われている。読書論の名著であるモーティマー・J・アドラーの『本を読む本』にも似たような記述がある。
学校教育ではまず最初に、普段使っている言葉の読み書きを教えるので、Aを教わる。しかし、Bのやり方は明確には教えない。AとBが混ざったものが小説などの文学作品。
小説やゴシップが好まれるのは、それがAをベースにしつつBを補助輪付きで楽しめるからではないか。しかし、それではBの力は完全には養うことができない。文脈(ストーリーライン)という補助輪があるため、自力で論理を組み立てる必要がないから。
論説文や哲学書などのまじめな話は、ストーリーという補助輪なしで、論理の階段を自力で登ることが求められる。この知的筋力のトレーニングを受けていないため、多くの人はこれを退屈ではなく苦痛(と感じてしまうでは。
漢文や全くの外国語は「わからない」ことが前提なため、強制的にCを行うことになる。意味がわからなくてもまず型(音・リズム)を身体に入れる暗唱は、Bを飛び越えて、Cの訓練になるのではないか。かつての日本人が難解な概念を理解できたのは、意味を問わずまず未知のものを受け入れるという、Cの器を作る訓練を幼少期に行っていたからではないか。
ただしこれはA, B, Cが(連続にしろ離散にしろ)つながっているときに成り立つ論理であり、BとCが独立した全くの別物であればCに挑戦する意味はない。なぜならこの議論の核心は、Bの能力を鍛えるためにはどうすればいいか、Bの能力が日本人には足りていないのではないかということだから。
ではどうすればCをすることでBが鍛えられるのか。それは、Cをする中で、構造・論理に着目するということ。なぜならば、Aは文脈・共感は使うが構造・論理は使わない。それに対してBは文脈・共感が存在しないため構造・論理を使うしかない。その、構造・論理を把握する力をCで鍛えようということ。