ツァラトゥストラかく語りき

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ツァラトゥストラかく語りき

著者名: Friedrich Wilhelm Nietzsche 他1名

ページ数: 565

種類: 専門書

おすすめ度: ★5

読了日: -

一言要約:
新しい価値を語るために、古い宗教の語り方を奪い返した本

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読書中の感想:
"シシューポスの神話"の中で、ニーチェをはじめとする名だたる哲学者が多数引用されていたので、彼らの思想を少し理解した方がシシューポスの神話の理解度が上がると思ったので、まずはニーチェの哲学を勉強するために購入。どこかのだれかさんから、"この本がニーチェの導入本やで( -`ω-)"と言われたが、結構難しい本らしい。

ニーチェはキリスト教を批判している?だとすれば、関学生がこれを読むというのは、皮肉めいてるなと感じた。ていうか、関学の哲学の授業ではニーチェはもしかして扱わないのか?さすがにそれはないか。そもそも、キリスト教の信者から何か攻撃とかなかったのかな?

理解を素早くするために GPT 作っちゃった
https://chatgpt.com/g/g-69f9ee03c05c81919043344eb4400cb3-tuaratousutoradu-jie-ban-zou-zhe

序章の一番初めに "ツァラトゥストラは三十路になったとき、故郷と故郷のみずうみをすてて山に入った。" とあるが、ここはかなり意図的に「聖者伝」や「福音書」の始まり方をずらして書いている箇所らしい。この本を書くモチベーションが「聖者伝」や「福音書」の否定なのかな?また、原典は「山に入った」より少し広く、「山地・山々へ行った」という表現らしい。

ツァラトゥストラは、架空の名前ではなく、古代イランの宗教改革者・預言者 Zarathustra / Zoroaster に由来しているらしく、日本語では「ゾロアスター」とも呼ばれる。ゾロアスター教の創始者とされ、西洋では「善と悪の対立」を強く打ち出した宗教的人物として理解されてきたらしい。

ニーチェ自身は後年の『この人を見よ』で、
"歴史上のツァラトゥストラは、世界を「善」と「悪」の戦いとして解釈した最初の人物だった。だからこそ、その誤りを最初に乗り越える者もツァラトゥストラでなければならない。"
と言っている。
つまり、ニーチェ版ツァラトゥストラは、単なるゾロアスター本人ではなく、
「善悪の道徳を始めた者が、今度は善悪の道徳を超えに来る」
という反転のための名前だという説がある。
これを真とするのならば、この名前にはかなり皮肉がある。預言者の名前を使いながら、キリスト教的・道徳的な世界観を壊しに来る人物として登場させている。
さらに、単に破壊するのではなく、その形式をあえてつかいながら、カウンターのようなことをしている。つまり、聖なる書物のように書きながら、聖なる書物の価値観を裏返すということをしている。ニーチェってすごいなと1行を読んだだけで感じてしまった。
新しい価値を語るために、古い宗教の語り方を奪い返した本になっている。
これはGPTに調べてもらった結果だけど、やはり背景知識があると理解がすごいしやすい。

日本語訳では"三十路"と訳されているが、原典では dreißig Jahre alt、つまり三十歳。なぜ三十歳なのかは所説あると思うが、私が納得したのは
"『ルカによる福音書』では、イエスが公的活動を始めたころ「およそ三十歳」であったとされている。"
というもの。最初の1行ですらこれでもかというほど皮肉を込めている。すごい。
『ツァラトゥストラ』の冒頭も、ツァラトゥストラが山にこもり、やがて人々のもとに降りて語り始める構造。これはかなり意図的に、福音書や預言者物語の形式をなぞってる。ただし内容はキリスト教の再演ではなく、むしろキリスト教的道徳を反転させるもの。踏襲しながら反転している。形式だけ見ると宗教的だが伝統的宗教とは反対方向に向いている。すごい。
最初私は、三十歳にしたのは平均寿命と関係があるのではと思っていたが、主因ではないみたい。たしかに19世紀の平均寿命は現代よりずっと低く、1900年の世界平均では新生児の平均寿命は約32年とされるが、これは乳幼児死亡率の影響が大きい数字。30歳が「もう老人」という意味ではない。
ここでは社会統計よりも、「三十歳=宗教的使命を始める年齢」という象徴性のほうが強い。

三十歳=宗教的使命を始める年齢とするのであれば、ゾロアスターは善と悪の対立を打ち出すの(布教)と同時にそれを誤りとして乗り越えようとしている?だからツァラトゥストラはツァラトゥストラであってツァラトゥストラでないのか。これが読んでもよくわからないと評されている所以なのかな。

また、面倒くさい私は、
"なぜ故郷と故郷のみずうみなのだろう。故郷のみずうみは故郷に包含されていると思うが。なぜこの2つ?そして、故郷とはどこのことだろう。現実にあるところ?架空のところ?"
という疑問を持った。それにたいする回答としては、論理的には重複しているが、文学的に大事な表現だかららしい。
原典では、seine Heimat und den See seiner Heimat(彼の故郷と、彼の故郷の湖)。
たしかに、湖は故郷に含まれているはず。だから論理的には重複している。でも、文学的にはこの重複が大事。
「故郷」だけなら抽象的です。家族、土地、共同体、過去、慣習などをまとめて指す。
そこに「故郷の湖」を加えると、急に具体的な風景になる。ツァラトゥストラは、ただ社会を離れるのではなく、自分の出発点を形づくっていた、なじみ深い自然の風景までも離れるということを強調している?
さらに象徴的に読むなら、
湖=静けさ、反映、故郷、低い場所、閉じた水面
山=孤独、高み、遠望、厳しさ、精神の鍛錬
という対比がでる。
つまり、「故郷と湖を離れて山へ行く」は、単なる移動ではなく、
人間社会と過去の自分を離れ、孤独な高みで自分の思想を成熟させるという動き。

また、ここでいう故郷とはどこなのか?実在する場所なのかという疑問を持ったが、この冒頭では、具体的な地名は出ていない。
したがって、作品内では明確な現実の場所ではなく、象徴的な故郷と読むのが自然。
歴史上のゾロアスターは古代イランに関わる人物だが、ニーチェのツァラトゥストラは歴史小説の主人公ではない。あくまでニーチェが作った思想的・詩的な人物。
ただし、湖と山というイメージには、ニーチェ自身の体験も重なっている可能性がある。ニーチェはスイスのシルス・マリア周辺、湖と山のある高地で重要な着想を得たとされ、『ツァラトゥストラ』や永劫回帰の思想とも結びつけられているらしい。
なので、作中の「故郷の湖」は特定の地図上の湖というより、生まれ育った世界・過去・低地の生活を象徴する湖と見るのがよいと思います。
どこかのだれかさんから Youtube もおすすめされて、そこでも永劫回帰の話が出ていた。永劫回帰に関しても勉強したいな。

そして、なぜみずう漢字ではなくひらがなで表現したのかという疑問を持ったが、これは漢字の表現だと現実の湖を連想してしまうからではないか。やわらかく、詩的で、昔話や聖書風の語りに近くなるように表現したかったのでは。

そして、すててもなぜひらがななのか?と思ったが、これは原典の verließ は、「離れた」「去った」という意味で、必ずしも日本語の「捨てる」ほど強くはないからだということらしい。

山に入るのは、比喩なのかなとも思うし、実際に山に入るということだとも思う。こういう、二面性?使い方あってるかな?がニーチェの良さなのかも。
GPT に聞いたところ、複数の意味があるみたい。
1. 孤独。人間社会から離れて、自分自身と向き合う場所。
2. 高み。下界の人間たちを見下ろすというより、広い視野を得る場所。
3. 宗教的な場所。モーセが山で神の言葉を受ける、イエスが荒野や山で試練・説教を行う、というように、山は宗教文学では啓示や変容の場所になりやすい。
ただしニーチェの場合、山で神の声を聞くのではなく、ツァラトゥストラは山で、神ではなく、自分の精神と孤独を味わう。続く文では、彼が「自分の精神と孤独を楽しんだ」と語られます。
ここがニーチェらしいところです。
普通の宗教なら、山は「神に近づく場所」です。
ニーチェでは、山は「人間から離れ、自分の思想を成熟させる場所」です。

聖者のように登場させる。しかし、その聖者は反聖者である。
福音書のように始める。しかし、その福音はキリスト教を慰めるものではなく、キリスト教的価値を崩すものである。
預言者の名前を使う。しかし、その預言者は古い善悪を超えようとする。
このように、表面と中身がずれている。
これを無理矢理一般化しようとすると、
"ある、世間一般常識を覆すためには、その常識の仮面を被りながら、その常識を反転させるような神業をしなければならない。そうすれば、常識は覆る。"
みたいなものかな?やばい、自分の表現能力が足りていない。
改めて言語化すると、
"ある常識を本当に覆すには、ただ外側から「それは間違いだ」と否定するだけでは足りない。
その常識が持っている形式・言葉・権威・身ぶりをいったん引き受け、その内部から意味をずらし、反転させることで、常識そのものを揺さぶることができる。"
つまり、
"何かを否定するときは、何かについて精通しておく必要がある"
というのと同じなのではないか。これってニーチェからきてる?

冒頭一文は単なる導入ではなく、
これは聖者伝のように始まるが、普通の聖者伝ではない。
これは預言者の物語だが、神の教えを伝える預言者ではない。
これは宗教的な語り方をしているが、古い宗教を乗り越えようとする本である。
という宣言になっているのではないか。

最初の1行でここまで感想を書いてしまった。これ、本当に読み終わるのか・・・?