ツァラトゥストラかく語りき
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"シシューポスの神話"の中で、ニーチェをはじめとする名だたる哲学者が多数引用されていたので、彼らの思想を少し理解した方がシシューポスの神話の理解度が上がると思ったので、まずはニーチェの哲学を勉強するために購入。どこかのだれかさんから、"この本がニーチェの導入本やで( -`ω-)"と言われたが、結構難しい本らしい。
ニーチェはキリスト教を批判している?だとすれば、関学生がこれを読むというのは、皮肉めいてるなと感じた。ていうか、関学の哲学の授業ではニーチェはもしかして扱わないのか?さすがにそれはないか。そもそも、キリスト教の信者から何か攻撃とかなかったのかな?
理解を素早くするために GPT 作っちゃった
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## 序説
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序章の一番初めに "ツァラトゥストラは三十路になったとき、故郷と故郷のみずうみをすてて山に入った。" とあるが、ここはかなり意図的に「聖者伝」や「福音書」の始まり方をずらして書いている箇所らしい。この本を書くモチベーションが「聖者伝」や「福音書」の否定なのかな?また、原典は「山に入った」より少し広く、「山地・山々へ行った」という表現らしい。
ツァラトゥストラは、架空の名前ではなく、古代イランの宗教改革者・預言者 Zarathustra / Zoroaster に由来しているらしく、日本語では「ゾロアスター」とも呼ばれる。ゾロアスター教の創始者とされ、西洋では「善と悪の対立」を強く打ち出した宗教的人物として理解されてきたらしい。
ニーチェ自身は後年の『この人を見よ』で、
"歴史上のツァラトゥストラは、世界を「善」と「悪」の戦いとして解釈した最初の人物だった。だからこそ、その誤りを最初に乗り越える者もツァラトゥストラでなければならない。"
と言っている。
つまり、ニーチェ版ツァラトゥストラは、単なるゾロアスター本人ではなく、
「善悪の道徳を始めた者が、今度は善悪の道徳を超えに来る」
という反転のための名前だという説がある。
これを真とするのならば、この名前にはかなり皮肉がある。預言者の名前を使いながら、キリスト教的・道徳的な世界観を壊しに来る人物として登場させている。
さらに、単に破壊するのではなく、その形式をあえてつかいながら、カウンターのようなことをしている。つまり、聖なる書物のように書きながら、聖なる書物の価値観を裏返すということをしている。ニーチェってすごいなと1行を読んだだけで感じてしまった。
新しい価値を語るために、古い宗教の語り方を奪い返した本になっている。
これはGPTに調べてもらった結果だけど、やはり背景知識があると理解がすごいしやすい。
日本語訳では"三十路"と訳されているが、原典では dreißig Jahre alt、つまり三十歳。なぜ三十歳なのかは所説あると思うが、私が納得したのは
"『ルカによる福音書』では、イエスが公的活動を始めたころ「およそ三十歳」であったとされている。"
というもの。最初の1行ですらこれでもかというほど皮肉を込めている。すごい。
『ツァラトゥストラ』の冒頭も、ツァラトゥストラが山にこもり、やがて人々のもとに降りて語り始める構造。これはかなり意図的に、福音書や預言者物語の形式をなぞってる。ただし内容はキリスト教の再演ではなく、むしろキリスト教的道徳を反転させるもの。踏襲しながら反転している。形式だけ見ると宗教的だが伝統的宗教とは反対方向に向いている。すごい。
最初私は、三十歳にしたのは平均寿命と関係があるのではと思っていたが、主因ではないみたい。たしかに19世紀の平均寿命は現代よりずっと低く、1900年の世界平均では新生児の平均寿命は約32年とされるが、これは乳幼児死亡率の影響が大きい数字。30歳が「もう老人」という意味ではない。
ここでは社会統計よりも、「三十歳=宗教的使命を始める年齢」という象徴性のほうが強い。
三十歳=宗教的使命を始める年齢とするのであれば、ゾロアスターは善と悪の対立を打ち出すの(布教)と同時にそれを誤りとして乗り越えようとしている?だからツァラトゥストラはツァラトゥストラであってツァラトゥストラでないのか。これが読んでもよくわからないと評されている所以なのかな。
また、面倒くさい私は、
"なぜ故郷と故郷のみずうみなのだろう。故郷のみずうみは故郷に包含されていると思うが。なぜこの2つ?そして、故郷とはどこのことだろう。現実にあるところ?架空のところ?"
という疑問を持った。それにたいする回答としては、論理的には重複しているが、文学的に大事な表現だかららしい。
原典では、seine Heimat und den See seiner Heimat(彼の故郷と、彼の故郷の湖)。
たしかに、湖は故郷に含まれているはず。だから論理的には重複している。でも、文学的にはこの重複が大事。
「故郷」だけなら抽象的です。家族、土地、共同体、過去、慣習などをまとめて指す。
そこに「故郷の湖」を加えると、急に具体的な風景になる。ツァラトゥストラは、ただ社会を離れるのではなく、自分の出発点を形づくっていた、なじみ深い自然の風景までも離れるということを強調している?
さらに象徴的に読むなら、
湖=静けさ、反映、故郷、低い場所、閉じた水面
山=孤独、高み、遠望、厳しさ、精神の鍛錬
という対比がでる。
つまり、「故郷と湖を離れて山へ行く」は、単なる移動ではなく、
人間社会と過去の自分を離れ、孤独な高みで自分の思想を成熟させるという動き。
また、ここでいう故郷とはどこなのか?実在する場所なのかという疑問を持ったが、この冒頭では、具体的な地名は出ていない。
したがって、作品内では明確な現実の場所ではなく、象徴的な故郷と読むのが自然。
歴史上のゾロアスターは古代イランに関わる人物だが、ニーチェのツァラトゥストラは歴史小説の主人公ではない。あくまでニーチェが作った思想的・詩的な人物。
ただし、湖と山というイメージには、ニーチェ自身の体験も重なっている可能性がある。ニーチェはスイスのシルス・マリア周辺、湖と山のある高地で重要な着想を得たとされ、『ツァラトゥストラ』や永劫回帰の思想とも結びつけられているらしい。
なので、作中の「故郷の湖」は特定の地図上の湖というより、生まれ育った世界・過去・低地の生活を象徴する湖と見るのがよいと思います。
どこかのだれかさんから Youtube もおすすめされて、そこでも永劫回帰の話が出ていた。永劫回帰に関しても勉強したいな。
そして、なぜみずう漢字ではなくひらがなで表現したのかという疑問を持ったが、これは漢字の表現だと現実の湖を連想してしまうからではないか。やわらかく、詩的で、昔話や聖書風の語りに近くなるように表現したかったのでは。
そして、すててもなぜひらがななのか?と思ったが、これは原典の verließ は、「離れた」「去った」という意味で、必ずしも日本語の「捨てる」ほど強くはないからだということらしい。
山に入るのは、比喩なのかなとも思うし、実際に山に入るということだとも思う。こういう、二面性?使い方あってるかな?がニーチェの良さなのかも。
GPT に聞いたところ、複数の意味があるみたい。
1. 孤独。人間社会から離れて、自分自身と向き合う場所。
2. 高み。下界の人間たちを見下ろすというより、広い視野を得る場所。
3. 宗教的な場所。モーセが山で神の言葉を受ける、イエスが荒野や山で試練・説教を行う、というように、山は宗教文学では啓示や変容の場所になりやすい。
ただしニーチェの場合、山で神の声を聞くのではなく、ツァラトゥストラは山で、神ではなく、自分の精神と孤独を味わう。続く文では、彼が「自分の精神と孤独を楽しんだ」と語られます。
ここがニーチェらしいところです。
普通の宗教なら、山は「神に近づく場所」です。
ニーチェでは、山は「人間から離れ、自分の思想を成熟させる場所」です。
聖者のように登場させる。しかし、その聖者は反聖者である。
福音書のように始める。しかし、その福音はキリスト教を慰めるものではなく、キリスト教的価値を崩すものである。
預言者の名前を使う。しかし、その預言者は古い善悪を超えようとする。
このように、表面と中身がずれている。
これを無理矢理一般化しようとすると、
"ある、世間一般常識を覆すためには、その常識の仮面を被りながら、その常識を反転させるような神業をしなければならない。そうすれば、常識は覆る。"
みたいなものかな?やばい、自分の表現能力が足りていない。
改めて言語化すると、
"ある常識を本当に覆すには、ただ外側から「それは間違いだ」と否定するだけでは足りない。
その常識が持っている形式・言葉・権威・身ぶりをいったん引き受け、その内部から意味をずらし、反転させることで、常識そのものを揺さぶることができる。"
つまり、
"何かを否定するときは、何かについて精通しておく必要がある"
というのと同じなのではないか。これってニーチェからきてる?
冒頭一文は単なる導入ではなく、
これは聖者伝のように始まるが、普通の聖者伝ではない。
これは預言者の物語だが、神の教えを伝える預言者ではない。
これは宗教的な語り方をしているが、古い宗教を乗り越えようとする本である。
という宣言になっているのではないか。
最初の1行でここまで感想を書いてしまった。これ、本当に読み終わるのか・・・?
太陽に語り掛けているのも、太陽を神様として見る宗教を踏襲して、その考えを覆すためのものではないか。その証拠に、ツァラトゥストラは太陽に向かって „Du grosses Gestirn!“ と呼びかけ、そのあとにお前もまた、受け取る者を必要としているではないかと言っている。絶対的に上から命令する存在ではなく、与えることによって自分の充実を実現する存在へと読み替えられている。
また、10年山にこもったというのも、意味がありそう。30歳からこもりはじめたので、40歳になる。聖書的な感覚では、「四十」は試練・準備・隔離・変容の数字としてよく出る。ただ、これは、宗教的なものが、神から予言を受けたら一瞬で考えを受け取れるが、人間は10年という時間の経過をしないかぎり成熟した思考はできないのだ、時間は偉大なのだというニーチェの思想が出ているのではないかと感じた。また、思想は、外から受け取るものではなく、時間をかけて自分の身体・孤独・経験の中で熟成するものだということもできるのでは。時間が偉大なのではなく、時間に耐えて自分を変容させる力が偉大なのだともいえる。
ツァラトゥストラの相棒として、鷲と蛇が出てくる。これキリスト教を換骨奪胎していると読める。
聖書では、蛇はまず創世記の誘惑者を連想させる。エデンの園で蛇は人間をそそのかし、禁じられた木の実を食べさせる存在として出てくる。しかしこの物語では「私の蛇」と呼び、さらに「最も賢い動物」と呼ぶ。
鷲は、上昇、高み、神的な視野、王者性、力を連想させる。聖書にも、神がイスラエルを「鷲の翼」に乗せて導いた、という表現がある。最も誇り高い動物として出てくる。キリスト教では傲慢は大きな罪になりやすい。
また、新約聖書には「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉がある。ニーチェは蛇の相棒を鳩ではなく鷲にしている。
"世の知者たちが再びおのれの無知に、貧者たちがふたたびおのれの豊かさに、気づいて喜ぶに至るまで"のところも、キリスト教を換骨奪胎していると読める。新約聖書には「貧しい者は幸いである」「心の貧しい者は幸いである」という言葉がある。たとえばマタイ福音書では「心の貧しい者」、ルカ福音書ではより直接に「貧しい者」が祝福される。また、パウロ書簡には「世の知恵を神が愚かにした」という発想もある。キリスト教では、貧しい者は神の国によって救われる。しかしツァラトゥストラでは、貧しい者は自分自身の豊かさを喜ぶようになる。という使い方をしている。まだ2ページ目なのにこんなにも詰まっている。
序説の一で、ツァラトゥストラが太陽に照らしてくれと言っているのは太陽を頼みの綱にしている、頼みの綱がないと精神が持たないという意味なのではないか。
人間たちの世界に降りていくと、自分の下降がただの没落に見えてしまう危険がある。
だから太陽に、自分の下降の意味を保ってもらいたい。
という感じなのではないか。
つまり、何か思想を伝えるときは、それを体現し、かつ実例があるものを根拠にするべきだということになるかな? 実際太陽はツァラトゥストラの行動と同じことをして、かつ人々を照らしている。 逆に何も根拠がなければだれにも相手にされないし、間違っている可能性があるということなのでは。
いやしかし、この物語ではそれでも人々に理解されない。ということは、ツァラトゥストラ自身が、自分の下降の意味を失わないための保証としている?やっぱり頼みの綱なのか。布教にはそれが必要なのか。
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森であった老人を聖者と呼んでいる。この老人は清い庵がら出てきたので、キリスト教的な聖人や修道士、隠遁者、しかも老人なので、かなり熟練のキリスト教的な聖人や修道士、隠遁者として描いて入うのではないか。そして、その聖者が人間を説得することをあきらめた(キリスト教の行きつく先)と対比して、ツァラトゥストラは人間のために贈り物をすると言っているのではないか。つまり、キリスト教は人間を見捨てるけど、私は人間を見捨てない。キリスト教は人間を滅ぼすけど、私は人間を滅ぼさない。世間の常識に従っていればいずれ滅びてしまうよということを伝えているのではないかと思った。それを伝えるために、キリスト教は人間を愛するが、それを突き詰めていくと、人間の不完全さに絶望してしまう。だからキリスト教はダメなのだというのを、キリスト教の熟練者を出すことによってここでも換骨奪胎していると読める。
森の老人は、古いキリスト教的聖者・隠遁者の姿である。
彼はかつて人間を愛したが、人間の不完全さに耐えられず、今は神を愛している。
これは、キリスト教的な人間愛が、結局は人間そのものを肯定できず、神や彼岸へ逃れることを示している。
それに対してツァラトゥストラは、人間を見捨てず、人間に贈り物を持っていく。
その贈り物は、人間が今のまま安住するための慰めではなく、人間が自分を超えるための教えである。
しかし、二人の会話を本文では"こうして二人は別れた。老人と男は、二人の少年が笑うように、笑いながら。"という旨の記述がある。なので、ニーチェはこの聖者をただ愚かな敵として描いてはいないのではないか。いや、思想が根本から対立しているもの同士は説得の余地がない、何を言っても納得してもらえないから話すだけ無駄だとツァラトゥストラも聖人も両方理解しているからそのような書き方をしたのではないか。だから、ツァラトゥストラはあの老人は神が死んだことを知らないと、老人から分かれた後言っているのではないか。
もっと極端読み方を思いついた。 聖人はキリスト教をこの世界で最も深く信仰している人。でも、地球上の現実世界にはそんな人はおらず、どんなひともすくなからずキリスト教に疑念を持つ機会がある。そのような人に、こんなに完璧にキリスト教の教えを守った人でさえこうなってしまうのだから、キリスト教はおかしいのだと思わせる狙いがあるのではないか。 つまり、登ろうとしている山の頂を見せて、その景色は期待外れだと言っているのではないか。そういう説得をしているのではないかとも思った。
聖者は「キリスト教を真面目に、徹底的に生きたらどうなるか」を示す極端なモデルである。
その結果、彼は人間を愛することから退き、神だけを愛する隠者になった。
ニーチェはそれを見せることで、読者に「この道を極限まで行くと、人間から離れてしまうのではないか」と感じさせている。
つまり、キリスト教的聖性の頂点は、ニーチェから見ると、人間を超えさせる力ではなく、人間から退く力になってしまう。
リスト教という山を登ったら、こういう景色ですよというものを見せておいて、でも世界にはさらに魅力的な山がありますよ。一回キリスト教の山から下りるので没落したように感じるかもしれませんが、没落した後に登山はキリスト教の山よりも高いですよというのを示しているのかも。
そして、そのキリスト教よりも高い山は、キリスト教の山を登らないと見えない、頂上を知らないと実感できないので、意図的に頂上を見せてあげている、頂上まで急上昇で連れて行ってくれている物語とも読めるかもね
序説の聖者は、キリスト教的な山を登りきった者として登場している。
彼は低俗な信者ではなく、むしろその道の高い到達点である。
しかし、その頂上は人間への贈与ではなく、人間からの退避に至っている。
ツァラトゥストラはその頂上を読者に見せたうえで、そこから下る。
その下降は、古い価値から見れば没落である。
しかし実際には、より高い山、すなわち人間が自分を超える可能性へ向かうための下降である。
物理的な高さからいうと、ツァラトゥストラはキリスト教の頂上よりもさらに高い山から下ってきたので、ツァラトゥストラが見たことのある頂上よりもキリスト教は高い。でも、ツァラトゥストラが見たことのある頂上を更新するために、ツァラトゥストラは山を下っている。その下りを成功させ、ツァラトゥストラが見たことのある頂上を更新するような山の登頂に成功するためには、太陽のようなものを頼みの綱にするしかない。ということなのかも。結局何か人に伝えるためには何かを頼みの綱にするしかないというよりかは、その人に与えるということが目的ではなくて、ツァラトゥストラが見たことのある頂上を更新するような山に登頂することがツァラトゥストラの真の目的だったのではないか
キリスト教の頂は、ツァラトゥストラが見たことのある頂上途中の道にあった。これは、キリスト教を否定するのではなく、キリスト教を登り切り、完全に理解したその先に、さらなる高みがある。否定するのではなく、換骨奪胎が大事であるという思想を表しているのではないか。つまりキリスト教は「ただの間違い」ではないのではないか。
キリスト教はただ否定される低い山ではない。
それは人間精神が一度は登った高い山である。
しかし、その頂上にいる聖者は、人間の未来を開かず、神への愛に留まっている。
ツァラトゥストラはその高さを認めたうえで、そこからさらに先へ進もうとする。
だから重要なのは、単なる否定ではなく、キリスト教的な高さを通過し、それを換骨奪胎して、より高い価値創造へ向かうことだ。
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ツァラトゥストラが町に来ると、人々が市場に集まっている。それは、綱渡り師が来ることが予告されていたから。群衆は、ツァラトゥストラの話を聞きに来たのではない。群衆は、哲学や新しい価値など求めていない。娯楽を求めている。綱渡り師は、群衆の関心の低さを示す装置なのではないか。
ツァラトゥストラがこもっていた山を下ったところに聖者(キリスト教を極めた人)がいるということは、ツァラトゥストラがこもっていた山よりもキリスト教の頂上の方が低いという前提で考えると、森のはずれにある最初の町はキリスト教の頂上ではないにしろ、何かしらキリスト教を極めようとしている集落なのか? もしそうならば、極めようとしている人は、哲学ではなく娯楽を求める。周りが娯楽を求めるから自分も娯楽を求めるという大衆心理に陥っている。それがどれほど愚かであるかを伝えようとしている? そうでなければ、この集落は別の山であり、何の関係もない。ただ、娯楽を求める人がおり、キリスト教の山よりも下にある、高度の低い山なのかもしれない。
"ありとあらゆるものは、今まで、みずからを超える何者かを創り出してきた"とあるが、ここおのありとあらゆるものというのは宗教や信仰など?みずからを超えるというのは神?
→「ありとあらゆるもの」は、宗教や信仰というより、生命全体、存在するもの全体。そして「みずからを超える何者か」は、神ではなく、人間の次に来るべき存在としての超人。
綱渡り師を求める=娯楽を求めることは、そういう超人に逆らっているんだと表現している?それとも、娯楽を求める行為こそが動物にかえろうとする愚かな行為だと言っている?
"人間にとって猿とは何か。物笑いの種か、痛みを感じるほどの恥辱である"のところは、人間にとって猿とは、物笑いの種 or 痛みを感じるほどの恥辱と言っているような書き方だが、この二個は or で並列に並べられないと思う。抽象度が違うと思う。原典で確認すべき? でも後の、"人間にとって・・・"の部分を見ても、or で読むのが正しそう。恥辱は何を表しているのか一目で理解できなかった。
→猿を見て、人間は笑う。でも本気で考えると、猿は人間にとって恥ずかしい鏡でもある。という、orではなく、こういう場合もあればこういう場合もあるよねという意味みたい。
"君たちは虫から人間への道をたどってきた"とあるが、なぜ動物ではない?直前で動物にかえるみたいな話をしていたのに。そして人間が上で虫が下のような書き方になっている。これもキリスト教を換骨奪胎している?
→虫は生物学上の昆虫というより、人間の中に残っている低さ・這うような性質・卑小さの比喩。虫を下のものとみているが、それは君たちは虫や猿を下に見るが、超人から見れば君たちも同じように低いのだ。というのを伝えるため?
また、キリスト教を換骨奪胎している説も濃厚。キリスト教では、人間を卑下し、神をあがめる(低い肉体・罪深い人間→神への上昇、魂の救済、天国)。しかしこの物語では人間の不足しているところを指摘し、人間を超人にさせる(虫・猿・現在の人間→超人)
"いかなる猿よりも猿だ"と言っているのは、動物になろうとする、キリスト教の頂上にいる聖人のことを言っている?聖人には神は死んだと説得しなかった。それは聖人がキリスト教を極めてしまっていていたから。でも、町で説得しているのは、"キリスト教を完璧に極めている人は手遅れですけど、皆さんは中途半端に進行をしていますよね?完璧には信仰できていませんよね?だから、変われるんですよ"ということを伝えている?人間だれしも楽がしたいというところがあるので、聖人な人間は現実世界にはいないので、架空の成人を出して、こういう聖人は変われないけど、皆さんは聖人ではないでしょ。だから変われるんだよ。ということを伝えているのではないかと思った。
聖者は、神への信仰によって地上から退いてしまった人間である。
彼はあまりにも完成された宗教的人間なので、ツァラトゥストラの「地上に忠実であれ」という呼びかけを受け取れない。
しかし町の人々は、聖者のように完全には神へ行けない。彼らは欲望も、退屈も、娯楽への欲求も、身体も、感情も持っている。
その意味で彼らはまだ地上に縛られている。
現実の人間のみなさんは町の人ですよね。
だからこそ、彼らには超人へ向かう可能性もある。
ただし、その地上性が低い快楽にとどまれば末人になるし、自分を超える力に変われば超人への道になる。
でも、そういう読みをすると、ニーチェはキリスト教を否定していることにならないか?
→キリスト教の頂上よりも高い場所からツァラトゥストラはおりてきた。ということは、キリスト教の考えのその先に、ツァラトゥストラの再考到達点があるということにならないか。そういう意味では、キリスト教を批判していないのではないか?批判と乗り越えるは違う?いや、批判と完全否定は違うということか。
ニーチェの本を読んでもよくわからないと言われるゆえんは、こういう、ニーチェの思想の解釈が多様すぎて読めないからということなのかなと思った。序章の1のところで、ニーチェの考え方を何となく理解した気でいたが、その考えが覆された。おそらく私はこの考えが覆されるという経験を、この本、ニーチェの文献を通して何回も味わうだろうし、これがニーチェ哲学の醍醐味なのかもしれないなと素人ながらに感じた。こういう、いろんな考えをして、一点に傾く・唯一の政界の方向に走るのではなく、常に自己内省して自分の考え・思想をチェックし、真ん中にとどまり続けるべきだとニーチェは主張しているのかもしれない。
こういう観点で見れば作家の朝井リョウと似ているのかも。いや、私が直前に朝井リョウの作品を読んだから認知バイアスで引っ張られているだけなのかもしれない。
でも、この真ん中の均衡を保ち続けるというのは大事だと思う。かなりしんどいけれど、ここで楽をすべきではないと思う。この考え方すら覆されるのだろうか。この先が楽しみだ。
→均衡を保ち続けるのではなく、常に自分の思考を乗り越えてアップデートし続けるということか。言語って難しいな。
→この考え方は、特にAI時代にかなり大事なのではないか。
でもその、乗り越えるというのは、裏表のように、裏の次は表、表の次は裏というものではなくて、足し算のように常にレベルを上げ続けていかねばならないよね。それを確認するためには、やっぱり言語化が大事なのかな。なるほど。ただの足し算というよりかは、足して、崩して、上がるみたいな感じ。山を登ったらそこで終わりではなく、そこから見える新しい山に向かって、時には下降するけれども最高硬度を更新し続けるイメージ。このイメージはこの本を読むまでも何となくあったが、この本を読むことでより理解が深まった気がする。
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人間は、動物と超人とのあいだに張られた一本の綱である。深淵の上にかけられた一本の綱である。とある。
ザイルテンツァーは、実際に綱の上を渡る人。
そしてツァラトゥストラは、人間そのものを「綱」だと言う。
だからザイルテンツァーは、ツァラトゥストラの思想の実演になっている。
しかし、ザイルテンツァーは超人ではない。超人へ向かおうとする人間の危うさを表しているのではないか。
人間はまだ完成品ではない。
動物と超人のあいだに張られた、途中の存在です。
だから安定した地面の上にいるわけではない。
深淵の上にいる。
ザイルテンツァーは、その「途中性」を体で表しています。
地面にいれば安全。
でもそれでは高みへ進めない。
綱の上に出れば危険。
でもそこにしか移行はない。
この意味で、ザイルテンツァーは「人間そのもの」の象徴です。
群衆の誤解を生む役割
さらに面白いのは、群衆がツァラトゥストラの話を誤解することです。
ツァラトゥストラが「人間は綱だ」「超人を教える」と語る。
すると群衆は、だいたいこんな反応をします。
綱渡り師の話はもう十分聞いた。さあ本人を見せろ。
つまり群衆は、ツァラトゥストラの「綱」の比喩を、見世物の綱渡りの話として受け取ってしまう。
ここでザイルテンツァーは、哲学的な言葉が群衆に誤解される仕組みを作っています。
ツァラトゥストラは存在の危険について語っている。
群衆は娯楽として聞いている。
このズレが序説3の中心にあります。
「危険に生きる者」としての役割
ザイルテンツァーは、少なくとも安全な地面にしがみつく人ではありません。
彼は危険な綱の上に出ます。
失敗すれば死ぬ。
それでも渡ろうとする。
この点で、彼は群衆よりもツァラトゥストラに近いです。
群衆は見ているだけ。
ザイルテンツァーは危険を引き受けている。
だから後の場面でツァラトゥストラは、彼を軽蔑しません。むしろ、彼の死に対して敬意を示します。彼は「危険を職業にした」者だからです。
では、なぜ彼は落ちるのか
ザイルテンツァーは後に落下します。
これはとても重要です。
彼は綱の上に出た。
しかし渡りきれなかった。
つまり彼は、自己超克の道に入ったけれど、成功した存在ではありません。
彼は「超人」ではなく、移行の危険を背負った人間です。
ここが悲しいところです。
でも、ニーチェは彼をただの失敗者として描いていない。
なぜなら、地面で安全に笑っている群衆より、綱の上で落ちた彼の方が、はるかにツァラトゥストラの思想に近いからです。
群衆との対比
整理すると、序説3には三種類の人間がいます。
一つ目は、ツァラトゥストラ。
新しい価値を語る者です。
二つ目は、群衆。
安全、娯楽、快適さを求める者たちです。
三つ目が、ザイルテンツァー。
危険な移行を実際に生きる者です。
この三者の関係が重要です。
群衆は「超人」を理解しません。
でもザイルテンツァーは、言葉では理解していなくても、身体で「人間は綱である」という真理を演じてしまう。
だから彼は、ツァラトゥストラの最初の聴衆というより、最初の実例です。
まとめると
ザイルテンツァーの役割は、主に四つあります。
1つ目。
群衆を市場に集めるための見世物です。これによって、ツァラトゥストラの言葉が最初から誤解される状況が作られます。
2つ目。
「人間は動物と超人のあいだに張られた綱である」という比喩を、目に見える形で示す存在です。
3つ目。
安全な群衆とは違い、危険を引き受ける人間の象徴です。
4つ目。
しかし彼は超人ではなく、渡りきれずに落ちる存在です。つまり、人間が自己超克へ向かうことの危険、失敗、悲劇を示しています。
なのでザイルテンツァーは、かなり重要です。
彼は「超人」ではない。
でも「末人」でもない。
彼は、人間が超人へ向かう途中で、深淵の上に立たされていることを体で示す人物です。
他作品と比べた感想:
朝井リョウの何物にも通ずるところがあると感じた。何者を読んだ後の私の感想は、唯一の政界の方向に突き進むのではなく、常に自分を疑い、自分の考えをアップデートし続けることが大事だということ。この本でも、常に自分の正解とする考えを乗り越え続けるべきだと主張しているのではと感じた。