考察する若者たち
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何故令和の若者は正解を欲しがるのか
考察動画、鬼滅の刃、変な家、ChatGPT、MBTI...何であれはやってるの?にすべて答える一冊。
平成と令和で何がわかったのか
批評から考察へ。正解のない解釈→作者の意図を当てるゲーム
萌えから推しへ。好きという欲求→応援したい理想
やりがいから成長へ。充実しているという感情→安定のための手段
ググるからジピるへ。複数の選択肢から選ぶ→AIが提示する唯一の解
最近の若者たちは、ただ感動するとか、おいしいだけでは満足できず、意味のある時間、例えばビールを飲んだら寄付ができる(おいしい+社会貢献)、ドラマの先の展開を予想する(ドラマを楽しむ+未来予想)を求めている。これは社会に問題があるのではという主張をしているのがこの本。
### 第一章 批評から考察へ
これまではトトロのサツキとメイは戦時中に亡くなった子供を象徴しているみたいな比喩(批評)であったが、令和になって、考察動画が流行ったように、サツキとメイは死んでいるみたいな答えが一つしかない正解を視聴者は求めるようになっている。批評が面白い時代が終わり、考察が面白い時代になっている。面白さは時代によって変わる。多義的な解釈(批評)は脳に負荷がかかる。それよりも『実は死んでいた』という一見ショッキングでも『明確な一点』に収束する情報(考察)の方が、現代の若者には『コストが低く、納得感という報酬が得やすい』ということではないか。
唯一の正解が分かると、見る側は安心して過去に見た作品をもう一度楽しみながら見る。唯一の正解がわからないと不安なのである。正解がない批評、正解がある考察。正解があるというのは、報われるゴールがあるということ。令和では、物語を楽しむことにすら報われることを求めてしまう時代なのではないか。
批評:解釈を増やす遊び
考察:正解(答え)を当てる遊び
### 第二章 萌えから推しへ
書籍では萌えは正解がない、推しは正解があると書かれていたが、少し違和感。自分が想像している推しと著者が想像している推しは少し違うのかも。萌えはその場の直感で感じるもので長続きはしない。推しはその場の直感だが、自分が憧れる、目指したいと思えるようなものを継続して長い期間推す。推し変えはあるが萌え変えはない。
### 第三章 ループものから転生ものへ
転生ものは自分自身を変える、つまり生まれた境遇を変えるがループものは変えない。これは今の自分の境遇では努力しても無駄だという社会になっているからではないか。
### 第四章 自己啓発から陰謀論へ
ひろゆき論は、マイナスをゼロにする。陰謀論もそう。しかし、自己啓発は1から10にするなどが目的。ひろゆき論や陰謀論は転生ものと類似点がある。
### 第五章 やりがいから成長へ
若者は平等を好む(良い子症候群)。ケーキを分ける時も量に差があってはいけない。これは卵かけご飯の卵を平等に混ぜたくなるのと同じ?じゃあ俺も良い子症候群?
仕事を続けられるのか、自分だけ周りから置いて行かれていないか。そのような不安が、人々を成長の欲求に駆り立てる。では上昇志向がない人は不安がないのか、不安を理解していないのか。現代の『成長』は、高みを目指すポジティブなものではなく、『現状維持すら危ういから、武装(スキルアップ)し続けなければならない』という生存戦略に近い。だとすれば、上昇志向がない人は、不安を感じていないのではなく、不安すぎて足がすくんでいるか、あるいはアルゴリズムの提示する『手軽な報酬』で不安を麻痺させている可能性はないだろうか。
昔は就活の軸として、自分のやりたい仕事ができるか(やりがい)が多かったが、2025年現在では自分が成長できるかが多い。仕事でも報われたいという気持ちがある時代。やりがいは楽しいという感情なので目に見えて報われる訳ではないが、成長は何かをできる能力を得るということなので目に見えて報われやすい。
### 第六章 メディアからプラットフォームへ
若者はダイパや行動の意味をやたら求めるのに、tiktokなどでは意味のない動画やショートなどを見てしまう。なぜ?新しい情報を得るとドーパミンという報酬が放出されるからだby「スマホ脳」。つまり、情報として記憶には残らないが、脳にとって報酬ではあり続ける。SNSで評価や情報という報酬よりもショート動画で得られる刺激という報酬は受け取りやすい。短い動画でオチをつけ、情報を与え、報われポイントを与える。そして動画の時間が短いので、動画への好き嫌いを深く考えさせない。動画をたくさん見たという行動が重視される。
私たちの好きは、私たちで決めるのではなく、プラットフォームからのレコメンドアルゴリズムが決める時代になって生きている。上記の考察、推し文化、転生、陰謀論や成長幻想はすべてプラットフォームで生まれた。どのようなものがおすすめされるのかは、クリックされやすいコンテンツが選ばれる。クリックされるコンテンツは、報われポイントがわかっているものがクリックされやすい。昨今では映画やアニメの結末がわかってから見始めるという話を聞くが、それもその一種なのでは。私もネタバレされた方が作品を見やすい。切り抜き動画も報われポイントがわかりやすい。
情報プラットフォームのアルゴリズムこそが、私たちの感情の満足だけではなくゴールで報われるという満足も欲しいという欲求を高めている。
令和の時代にヒットコンテンツを作りたいのであれば、アルゴリズムに乗っかり、プラットフォームに即した形で楽しい実感+それ以外の報酬を与えることが重要。コンテンツを拡散させているのは人の意思ではなくプラットフォームなのだ。しかしアルゴリズムはユーザー(受信者・送信者両方)の個別性を失わせやすい。クリックされやすいものは今の多くのユーザーの報われたさに最適化されたコンテンツだから。AIもそうなのでは?民主主義的(平均的)な意見しか言わない感じがする。
### 第七章 ヒエラルキーから界隈へ
インターネットプラットフォームのアルゴリズムが人の思考を過激化させたという主張は否定されてきている。アルゴリズムが提示するコンテンツの報酬によって思考が過激化したのではなく、元から人にはそういう過激な思考があって、そのコンテンツを見ているだけという主張。だってコンテンツをクリックしたのはユーザーなのだから。
アルゴリズムは、同じ界隈と判断したユーザーに同じ情報を差し出す。そしてクリックやインプレッションを計測し、よかったものをどんどん薦める。その界隈にヒエラルキーはない。みんな平等。
界隈の中の情報は知っているが、外の情報は驚くほど知らない。チャンネル登録上位の一覧を見てもピンとこないのはそれもあるのでは。界隈ごとにスターは生まれるが、全員が知っているような平成や昭和のスターは生まれづらい。アルゴリズムによって最適化されるとは、こういうこと。
その中で、界隈を超えて冒険することは、エンターテイメントになりうる。
意識調査のなかで、相談する人として、昔は友達が1位だったが、最近は親が1位になってきている。これは友達の付き合いも界隈みたいなもので、その界隈の話題は気軽に話すことができるが、その界隈以外の話題は話すことができなくなっている、友達関係すらも界隈化してきているのでは。では親はどうなのだろう。親子になることで、その関係は界隈化せずにすむのだろうか。その答えの一つとして、親子関係はフラットではなくヒエラルキー的だからだという主張もある。確かに私自身も、この人といるときはこういう系の話はしないほうがいいな…みたいなことがよくあるが、それも界隈化の影響なのだろうか?
ではほかにヒエラルキーはないのか。昔はあったが、今や上司や部下とかスクールカーストなどのヒエラルキーは崩れつつある。絶対的な正解は与えてくれないことがわかってしまっているから。ではなぜ私たちは最近になって絶対的な正解を求めるようになってしまったのか。知らなければよいことを情報技術の発達により知ってしまったからなのか?私たちはこれからどのように生きていけばよいのだろう?
### 第八章 ググるからジピるへ
AIを疑似親として求めるようになるのでは。正解を常に提示してくれるような存在になりそうだから。その結果、人間はフラットになり、AIがヒエラルキーの上にいるようになり、AIに支配されたといってもいい状況になるのでは。AIに支配されるのが悪いのだろうか。
AIでも七章で言及した界隈化が急速に進むのではないか。AIは学習データの中から正解を決める。もし学習データがどこかの地域だけに偏っていたらその地域だけの専用AIが誕生する。正しさを求める人はその専用AIの方を使う。そうして各地域ごとに専用AIが誕生したら、グローバル化が終わり、完全にコミュニティに閉じこもるようになるのではないか。
AIにしがみつきたくなるのは、情報の川の流れが速すぎてどこにしがみつけばいいのかがわからないから。とりあえず正解っぽいのを与えてくれるAIにしがみついてしまう。科学技術が進歩しても、情報の川の流は速くなる。逆に、科学技術が進歩したから川の流が速くなってしまっているのか?
### 第九章 自分らしさから生きづらさへ
いまはアテンションエコノミーの時代。それだけ注目を集められるか。昔はランキング形式で注目を集めることが主流だったが、今はアルゴリズムによっておすすめされるコンテンツを見るので、どれだけアルゴリズムにおすすめされるか、どれだけ注目を集められるかが重要になっている。どれだけ界隈におすすめされるか。ここで絶対的なヒエラルキー(例えば小説でいうと、有名作家な東野圭吾などということ)はノイズになる。重要なのは、アテンションを集めることができるのはどんでんがえしが起きる内容。つまりアルゴリズムの世界では、作家名や作者名は重要ではない。これはインターネットにより固有名詞が解体されてきているということなのでは。
一章で考察と批評の話があったが、考察は考察した人が誰かは重視しない。なぜなら正解は一つだと考えられているから。あっているかどうかが重要視される。しかし批評では批評する人がだれかを重視する。その人の考えを入れる必要があるから。そういう点で見れば、インターネットが固有名詞を解体しているというのは、批評から考察へ変わってきているのと同じなのではないか。
レコメンドシステムはユーザーが何が好きかを個別に判断しているのではなく、ユーザーがどの界隈に属しているかを判断している。
普通の人は一般常識として、自分のキャラを使い分けている。界隈ごとに最適化されたキャラを使っている。今の社会で必要なのは自分らしさではなく、界隈ごとに最適化された自分。本当にそれでいい?自分らしさを保つにはどうたらいい?
### 終章 最適化に抗う
自分のキャラをコミュニティによって使い分けているのは、自分のキャラを最適化しているのと同じなのではないか。それはレコメンドシステムと同じように、自分のキャラを考慮して自分の行動を最適化していることと同じなのではないか。自分が何がしたいかよりも、自分が何をすれば褒められるか・評価されるかを考えて行動する方が他人から好かれるしやりがいも感じるので楽だと感じているのでは。
自分のやりたいことではなく、自分に求められていることをベースに行動するのは楽だが、本当にそれでいいのか?このまま社会が変わらなければ、個性が消滅してしまうのではないか。それは本当に私たちにとって求めていたことなのだろうか。自分が本当にやりたいことを見つけるのは難しいし、レコエンドシステムによっておすすめされるものを選ぶのは簡単で楽で報われた感を感じることができるけど、それにあらがって自分らしさを磨くべきではないのだろうか。